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第二十五章

 深夜。


 俺はひとり机に向かい、長らく眠らせていたパソコンを起動した。


 久しぶりにSNSを開くと、未読の通知が山ほど溜まっていた。


 一番上に表示されていたのは、システムからのメッセージだった。


 ――カップルページは一週間後に削除されます。保存を希望する場合は、パスワードを入力してログインしてください。


 胸がドクンと跳ねる。


 机の上に置いた桜の花びらの形をしたヘアピンに視線を落とした瞬間、あの店で思い出せた記憶がどうしても気になる。


 その記憶の中で泣き崩れていた少女の姿と、別れ際に涙に濡れていた千姫の顔が重なった。


 分かってる。これから俺がやろうとしていることは、彩花を裏切る行為だって。


 それでも、あの少女ーー千姫が言った「......ずっと一緒、惠君」という言葉が、どうしても頭から離れなかった。


 パソコンの前に座り込み、俺はパスワードを打ち込んでみた。

 入力できるのは数字だけで、しかも八桁。どう見ても日付っぽい。


 まずは自分の誕生日を――エラー。


 次に千姫の誕生日を試す。正確な日付は知らない。でも、ひとつずつ当てていけば、いつかは……。


 一日、二日、三日……。時間だけが無駄に過ぎていく。


 入力の繰り返しを何度も間違えたせいで、次に試せるまで五分のロックがかかる。五分経つたび、またパスワードの入れ直しだ。


 家では睡眠時間を削ってでも入力し続け、学校でも彩花と一緒にいるときを除けば、ほとんどすべての時間を五分ごとの入力に費やした。


 ――そして、ある日。

 いつもと変わらない日常の中、俺と彩花は屋上の塔屋でゲームをしていた。


「見える? あの岩!」


「まずはトラップを避けて、その岩に矢を撃ち込むんだよ!」


「やばっ、ボスが必殺技使ってくる!」


「ちょっと、何してんの先輩!」


 討伐クエストに失敗した。


「惠、またボーっとしてた!」


 彩花が少し怒ったように立ち上がり、裸足で俺の背中を軽くトンッと蹴った。


 そのまま膨れっ面で俺の隣に座り込み、両膝を抱えた。


「悪い悪い。寝不足でさ、昨夜は一睡もしてないんだ」


「昨日もめっちゃ眠そうだったし……ていうか、ここ最近ずっとでしょ」


「うん……ちょっと色々あってな」


「色々って何?」


 彩花はじっと俺を見つめ、関節が白くなるほど強く、指先でスカートの裾をぎゅっとねじる。睫毛が小さく震えて、唇はきゅっと結ばれていた。


 俺はその視線から逃げるように、つま先を見つめ、ゲーム機のボタンを意味もなく指でなぞった。喉が渇き、唾を飲み込んでやっとの思いで言葉を絞り出す。


「……なんでもないよ」


 声は自分でも驚くほどに乾いていた。


 彩花の目がかすかに陰り、不意に俺の袖をぎゅっと掴む。布が皺になるほど強く。

 だがすぐにハッとしたように手を離し、指先が宙を漂ったあと、力なく下りていった。


「最近の惠、どこか上の空っていうか……。もしかして、千姫先輩のことばっか考えてるんじゃないの?」


 拗ねたように少し口を尖らせながらも、その声には泣きそうな響きが混じっていた。


「……あーあ、このままじゃ負けちゃうじゃん......うぅ……」


 冗談みたいに言いながら、彩花は顔を膝にうずめた。けれど、その声はますます涙混じりだった。


「違うんだ……。ただ、俺はどうしても確かめたいんだ。千姫との三年間を。――その全部を知ってこそ、初めて彩花、お前と真正面から向き合える気がするんだ」


 俺は彩花の手を掴もうと伸ばしたが、彼女は勢いよく振り払った。


「嘘つき! 惠は、今にも私のそばからいなくなっちゃいそうだ……!」


 彩花は顔を上げ、真っ赤な目で俺を睨むと、靴も履かずにそのまま走り去っていった。


 俺は深くため息をついた。


 空はやけに青く澄んでいた。


 分かってる。俺に彩花を愛する資格なんてないことを。


 パスワード入力を繰り返す合間、俺は一回だけ月に千姫のことを尋ねた。

 けれど月は冷たい声で返した。


「今さら何を探ろうとしてんだ? 全部、もう手遅れなんだよ」


「他の女を抱きおいて、まだ千姫のことを探る気か? 笑わせるなよ。お前にそんな資格はねぇよ」


 その言葉は鋭い刃となって胸を抉った。虚勢も言い訳もすべて剥ぎ取られ、残ったのは罪悪感と迷いだけ。


 そしてそれは、彩花に対しても同じことだったのだろう。過去の記憶に縛られている俺には、彩花を抱きしめる資格さえない。



 ――その日の午後。

 彩花からメッセージが届いた。


『惠君、ごめんね。私、ちょっと子供すぎだよね。いちいち怒っちゃって

 今日の帰り、一緒ゲーセンに付き合ってくれない?お願いっ(╯﹏╰)』


 俺はようやく息を吐き出し、少しほっとしながら短く返した。


『いいよ』

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