第二十章
電車を降りると、千姫は今まで見たこともないような慌てた様子で、背を向けて髪を直していた。鏡を取り出して、乱れていないか不安そうに何度も見直していた。
しばらくして、ようやく千姫が顔を上げた。恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めている。
「......やっぱり千姫って、可愛いな」思わず彼女頭をそっと撫でた。
「惠くんに寝顔を見られた......きっと変な顔してたよね......もう、どうしたらいいの......お嫁に行けない」千姫は俯いて、いじけたように呟いた。まるで泣き出しそうだった。
「俺と三年間付き合ってるんだろう、寝顔なんてとっくに見てるから。今さらそんなことで気にする?」すこし不思議だと思い、俺は千姫の頭を撫で続けた。
「何年付き合ってても、惠くんに見られたら、恥ずかしいんだから!」千姫は恥ずかしそうに俯き、不満を言うように軽く手で俺の腹を突いた。
「俺はむしろ可愛いと思うけどな……」俺は少し笑って返した。
「惠君のバカ......」千姫はさらに恥ずかしげに頭を下げ、俺の服を引っ張りながら言う。そして俺たちはそのまま駅の出口に向かって歩き始めた。
駅から出てロビーに入ると、頭上に巨大な案内板があった。便名や出発時刻がずらりと並び、数字が次々に切り替わっていく。
千姫は携帯で搭乗便を確認し、俺に画面を見せてくる。
案内板の矢印に従ってカウンターへ向かい、スーツケースをベルトの上に載せると、意外なほどあっさりと手続きは終わった。
俺たちは人の少ない保安検査場の近くに腰を下ろした。いつの間にか、俺たちの手はぎゅっと強く握り合われていた。手のひらに汗が滲んでいても、離れることはなかった。
これはただの恋人同士手つなぎなんかじゃなく、もっと深くて大切な絆のような気がする。
窓の外で飛行機がゆっくり動き始めるのを見て、千姫がもうすぐいずれかを乗り込むと俺は悟る。思わず握りしめていた手にさらに力が入る。俺は千姫を見ると、彼女もこちらを見返していた。俺たちはお互いに、これが最後のひとときであることを分かっていた。
ずっとためらったことを俺は尋ねた。「千姫……どうして海外へいくと思ったんだ?」
千姫はさらりと口にした 「もし、私が惠君の記憶のために留学するんだって言ったら……惠君はいやになっちゃう?」柔らかい声色とは裏腹に、その横顔からはどうしようもなく切なさが滲んでみえた。
「俺は……」と言いかけた途端、千姫は小さく首を振り、笑いながら言った。
「それは……冗談に決まってるよ。私、悲劇のヒロインじゃないし。元恋人の記憶を取り戻すために海外で医学の勉強をする……なんて映画の『HELLO WORLD』みたい。本当はね、留学は惠くんに背中を押してくれたの、惠くんは覚えていないかもしれないけど」
「そうなんだ……」俺はどういう言葉で返せばいいのか分からず、ただ頷いた。
千姫は腰に手を当て、少し自慢げに言う。「私はもっと成長したいの。将来戻ってきたときに、もし惠くんと彩花ちゃんが別れていたら、私は絶対にもう一度惠くんを振り向かせてみせるよ。惠くんが別れていなかったら、それはそれでいいの。
「ちーちゃんはね、恋人にしがみつくような悲劇のヒロインじゃないの。もし海外で素敵な人に出会ったら……そのときは、その人にだって恋しちゃうかもしれないよ?」千姫は明るく言い、先ほどまで重い空気を吹き飛ばした。
千姫はその後も続いて何かを語っている。しかし俺には、まったく耳に入っていなかった。心の中で「ごめん、千姫…」とだけ呟く。
千姫は楽しそうに夢を語っているというのに、俺はどうしても嬉しさを共有できずにいた。それどころか、俺は千姫の夢や希望が全部嘘であってほしいとさえ思っていた。そう思う自分が申し訳ない気持ちがいっぱいだった。
俺の不安げな顔を見て、千姫はふっと言葉を止めた。次の瞬間、彼女はゆっくりと身を寄せてきて、俺を胸に抱き寄せる。そして、囁くように言う。
「だからね、惠くん……私のことは忘れて……ちゃんと幸せになってね」
俺は千姫の胸に頭を預け、その最後の温もりとを感じていた。
俺はわかってしまった。千姫は、あんなに大げさに夢を語るような子じゃない。きっと、俺を心配させまいとして、楽しそうに振る舞っているに過ぎないのだと。
俺たちは何も言わずに寄り添い合い、ただ互いの温もりにすがるようにして時間を止めていた。
「じゃ......千姫は?」俺に幸せになれっていうけど、あなたも幸せになれるの?
千姫は少しだけ伏し目になり、優しく言う。
「惠くんとの思い出は、これからずっと大切にする。どんな困難があっても、きっと乗り越えてみせるよ。だって、恵君からもらった一番の宝物は、もうこの胸の中にあるから」
その言葉を言い切ると、彼女は俺の手をそっと放し、涙をこらえるように微笑んだ。
「だから......惠くんは絶対に幸せになってね。私のことは......大丈夫だから」
今にも涙がこぼれそうな声でそう告げると、彼女は振り返らずに保安検査場へと歩き出した。
俺は、その背中を見送りながら──別れの瞬間が訪れたのだと痛感していた。
千姫の足取りは小さく震え、今にも振り返りそうな気配を必死にこらえているように見えた。俺は衝動に駆られて手を伸ばし、数歩踏み出した。けれど、その瞬間に彩花の姿が頭をよぎる。
──俺に、千姫を引き留める資格なんてもうない。自分にそう言い聞かせた。
それでも!!
「千姫のことは絶対に忘れない! たとえ恋人じゃなくても、友達として戻ってくる日までずっと待ってる!」俺は声が枯れるほどの叫びを、千姫にぶつけた。
千姫はその場に立ち止まり、小さく震える肩を必死に抑えていた。
やがて振り返った瞳は涙に揺れていて
「……ありがとう……さよなら......」と震える声で告げる。
微笑みとも泣き顔ともつかない表情を浮かべながら、そして、もう二度と振り返らないように、一歩一歩ゆっくりと遠ざかっていった。




