第十九章
まだ夜明け前の薄暗い時間、俺は自転車を飛ばして駅に着いた。駅前、嬉しそうに手を振る千姫の姿が目に飛び込んだ。スマホを見ると、約束の時間まではまだ十五分ほど余裕があった。
彼女は白いワンピースを着ていた。それはこの前の三日目のデートに着ていた服で、海を見に行ったときの衣装でもあった。純白のその姿は、まるで春に咲く桜の花のように、儚く清らかだった。
俺は足早く近づき、少し照れ笑いを浮かべながら口を開いた。
「ごめん、女の子を待たせちゃうなんて。本当に遅刻だよな、あはは。」
千姫はふっと笑みを浮かべて、小さく首を振った。
「うんん......惠君が来てくれただけで、私はもう十分だよ」
千姫の横には大きな紫色のスーツケースが置いてあった。
「俺が持つよ」
そう言うと、千姫は黙って頷き、小さな声で「ありがとう」と言う。
俺たちは改札を通り、ホームで電車を待った。週末の早朝だったので、ホームには俺たちのほかに数人がいるだけだ。黙ったまま、俺たちは静かに列車の到着を待っていた。
しばらく躊躇ってから、俺は思い切って尋ねた。
「千姫の両親は、見送りに来ないの?」
千姫はかすかに笑みを浮かべたが、その瞳にはどこか影が差していた。
「惠くん、私は孤児院で育ったの。施設の人も先生も見送りに来てくれるって言ってくれたけど、でも迷惑をかけたくなくて........」
そんなこと......全然知らなかった。胸の奥が締め付けられて、知らない自分がすごく情けなく悔しかった。
「ごめんね、なにも知らなくて、いろいろ大変だったんだね。」
千姫は優しい笑顔を向けながら言う。
「ううん、そんなことないよ。」
「それに、施設の人たちはみんな優しいし、先生もみんなすごくいい人だよ。
「そして何より、いま惠くんがこうしてそばにいてくれたんだから」
沈黙する俺の前で、千姫は小さく息を吐き、ためらいがちに手を伸ばした。指先が俺の手に触れたかと思うと、かすかに握り、もう一方の手で俺の腕に寄り添った。
「その子のことは悪いかもしれないけど......前の“演技”、続かない?」
どこか切なげなのに、それでも優しく微笑む彼女に、俺はすっかり心を奪われ、いつまでも彼女を守りたいと思った。
ほどなく電車が到着し、俺たちは習田空港行きの列車に乗り込んだ。まだ朝早いため車内は、俺たち二人だけの貸し切りだ。
「まもなくドアが閉まります。ご注意ください。」
電車のアナウンスとともに扉がゆっくり閉まり、列車は動き出した。窓の外の景色も流れ始め、見慣れた住宅街が次々に目の前を過ぎ去っていく。
千姫は口元を隠してクスリと笑った。
「こうして惠君と電車にのるの、いつぶりかな......なんだか旅行みたいだね」
「そう......だね、千姫にとっては旅行みたいなものじゃない。海外へ大学に行く“長期旅行”だから」
千姫の瞳がわずかに揺れた、少し心配そうに尋ねた。
「そうだね.......ところで、惠君、あの子のことは大丈夫なの?」
いわれなくてに分かっていた。ーー俺が千姫を見送ることを、彩花に打ち上げていないじゃないかと心配しているのだ。
俺は小さく首を振った
「まだ彩花には言っていない。ただ数日前に、『しばらく一人にしてほしい』ってメールを送っておいたんだ。彩花も了解って言ってくれたよ。」
千姫はにっこりと笑いながら言った。
「その子は彩花ちゃんっていうの。かわいい名前だね。もし同じクラスだったら、友達になれたかもしれない。」
「そういうのって抵抗あると思ったのに、その......元カレの仲がいい女の子...」
「そんなことないよ。彩花ちゃんも私も惠くんのことが大好きなんだから、きっと話膨らませると思うなぁ」
「そこで膨らませないでくれよ、二股みたいで」
「実際いま見送ってくれたことは二股でしょう~」
そうやって冗談交じてる中、千姫は突然俺の肩に体重を預けるようにして寄りかかった。
「ねぇ、惠くん、私に彩花ちゃんとのことを教えてよ。これから惠くんと彩花ちゃんがどんな日常を送るのか、元カノとしてすごく気になるの」
彼女の言葉が本気なのか冗談なのかわからなくて、俺は苦笑いを返した。
「俺と彩花ちゃんのことよりも、千姫との過去のことを聞きたいよ」
千姫は俺の頬を軽くつまんで、不満そうに言う。
「ちーちゃんのことなんてもう過去の話じゃない。今のことを聞いているの」
俺はため息をつきながらも、千姫の甘えてくる様子に密かに喜びを感じていた。そして、俺は彩花とのここ一ヶ月の出来事を、まるで物語を語るかのように話し始めた。
千姫は少し驚いた声を上げた。
「ええっ!?じゃ彩花ちゃんって、惠君が前にゲームで付き合ってたネットの彼女にそっくりってこと?」
「そう言われると……そうでもない気がする......彩花はあのネットの彼女よりも優しくて、わがままも少ないというか……」
そこで、すこし気づいたことがる。彩花があのネットの彼女より優しいっていうのなら、千姫もまた彩花より自分に対して優しいのだ。そのやさしさはまるで自分のすべてを受け入れたようなやさしさだった。
しばらく考えてこむと、千姫がこくりと小さく頭を揺らした。まぶたは重そうに半分閉じかけた。
「だからね......彩花ちゃんには、うそ......つかないでねぇ。今日のことも......ちゃんとはなしてあげて......」
今にも眠ってしまいそうなのに、その口から出る言葉はやっぱり俺のことを思ってくれていた。
「習田駅までは、先に少し寝てなよ。着いたら起こしてあげるから」
「ごめんね......惠くん。本当は......もっと話したかったんだ、ちょっとだけ......寝るね......」
やがて千姫は俺の肩に頭を預け、規則正しい呼吸を繰り返し始めた。その寝息が妙に心地よく感じられた。
窓の外の景色が流れていく中、俺は彼女の安心しきった寝顔をそっと見つめていた。
「まるで眠り姫みたいだ」
心の中でそう呟きながら、俺は眠り姫を守る騎士として、終点まで見守ろうとした。




