第十七章
少しの沈黙のあと、彼女は目を逸らしながら問いかけてきた。
「惠君、人にとって一番大事なものって何だと思う?」
「うーん……多分、家族とか恋人とか友達とか、そういうものかな……」俺はその意図が見えずに答えた。
「惠君の言う通りだよ。でもね、家族や恋人や友達よりもっと大切なものがあると思う。それは、記憶なの」千姫は落ち着いた口調で言う。
「私にとって、私たちが付き合っていた頃の思い出が一番大切だよ。たとえ惠君がそれを忘れてしまったとしても……」彼女の一言一句。それはきっと心の奥深くにしまっていた言葉だった。
「その思い出は、昔の惠君にとっても大切だよ。でも、一度失ってしまったものはもう戻らないとしたら、失ったことをその人に思い知らせるのも、ある意味残酷なことだと思うんだ。」その言葉のどこかに切なさを感じさせるものがあった。
俺は彼女の言葉に、あの思い出が彼女にとってどれほど大切なものかを痛いほど感じていた。
川面に水の流れが映り込み、彼女の瞳がゆらめいていた。
千姫自身はまるで河川の中の岩のように、時間がいくら流れても、その記憶を守り続けているようだった。
「じゃあ……千姫は、俺にその記憶を忘れてほしいのか……」自分でもどんな口調だったか分からなかったくらい、それを口にした瞬間、胸の奥が締めつけられるようだった。
かつて愛した人に大事な思い出を忘れさせるなんて、それほど悲しいことがあるだろうか......
千姫は答えず、ただ静かに川の流れを見つめていた。彼女はそこに座っているはずなのに、心が遠い場所にあるように感じられた。
「それでも、俺は知りたいんだ。何もかも知らないまま生きていくのは、もう嫌なんだ」胸の奥の辛さを抑えられず、俺は千姫の両肩をつかみ、必死に訴えた。
千姫は唇を強く噛みしめ、しばらく沈黙したあとでようやく言った。
「惠君が記憶を取り戻したいのは......私のためじゃないんだよね」彼女の言葉には責めるような響きはなく、それでもどこか悲しみと強がりが混じっていた。
「……ごめん……」
言葉が出てこない。
気づけば、千姫の肩から手を離していた。
全身が熱くなって、今すぐその場で土下座でもしたいくらい情けなかった。
千姫はそっとに尋ねた。「……その子のためなの?」
俺はすぐに彼女の言う『その子』が誰なのか分かった。
頷いた後、すぐに首を横に振った。
「……まあ、確かに一部はその子のためかもしれない。でも千姫、俺はもうお前を無視できないんだ。お前のことをもっと知りたいし、理解したい。俺たちの過去を知りたいんだ......」
俯きながらそう言った俺は、自分のわがままを恥じた。言ってしまえば、正々堂々と二股を宣言してるようなものだ。
千姫は片手で俺の顔に触れ、くすくすと笑った。
「惠君って、本当にバカだね。そういうのを気が多いって言うのよ。だって惠君にはもう素敵な彼女がいるんだから。それなのに、元カノのことまで知りたがるなんて」
彼女の言葉と指先の温もりが、俺の胸の奥にあった罪悪感をそっと溶かしていく。
もちろん、それで全部消えるわけじゃない。けれど、俺は知らず知らずのうちに千姫の優しさに甘えていた。
「……ごめん。俺が過去を知りたいって言ったのは、ただ自分のわがままなんだ…」申し訳なさそう呟く。
千姫は優しい声で答えた。
「そんなことないよ。けいくんは誰よりも恋愛に真剣なんだって、私は知ってる。でもね、その分……もし過去の思い出が全部知ってしまったら、きっと後悔すると思う。あの子にどう向き合えばいいのか、ますます分からなくなるんじゃない?それでも……けいくんは知りたいの?」
「知りたい!」思わず声を上げてしまった。
「……惠君、実はね……私、三日後に留学するの」千姫の声は小さく震えていた。
「え……どういうことだよ? 初めて聞いた……」俺は思わず声を荒げていた。
千姫は一度視線を落とし、そしてゆっくりとこちらを見た。
「実は、学校から特待生として選ばれて……一学期にはもう決まってたの。惠君も本当なら知っていたはずなんだよ。でも……惠君が記憶を失ってしまったから、言えなくて……」
俺は衝動的に千姫の手を握りしめた。
「じゃあ千姫は……留学するから……俺と……別れたってことなのか?」
千姫はかすかに肩を震わせ、ためらうように小さくうなずいた。
「……うん……」
その顔には笑みが浮かんでいたが、それはまるで泣き出しそうな表情を隠すためのものだった。
「本当はね、帰ってきて……もし惠君がまだ私を想っていてくれるなら、そのとき全部を話そうと思ってた。二人の大切な思い出を、全部……」
彼女はそこで一瞬言葉を切り、力なく首を振った。
「でも、もうそんな必要がないなの。だって……惠君には、もう私より大切な人ができたから」
千姫は申し訳なさそうに、けれど優しく微笑んで俺の手をそっと外した。
「全部、私が悪いんだよ。惠君の手を離したのは私だもの……。だからお願い。目の前の幸せを、絶対に離さないでね。私のことはもういいから」
そう言うと、彼女は涙をこらえるように背を向けて駆け出した。その背中は小さく揺れながらも、どこか決意を秘めていた。
俺は言葉をかけることも、引き留めることもできず、ただその姿が小さくなっていくのを見送るしかなかった。




