第十六章
放課後、俺と千姫は無言で下校の道を歩いていた。千姫の表情は少し固く、視線は下に落ちて足元ばかり見つめている。両唇をかすかに噛み締め、何か言いたげな様子ではあるがためらっているようだった。バッグを両手で抱え、一人分ほど距離を空けながら俺の隣を歩いている。
俺も空に浮かぶ雲をぼんやり眺めながら、話しかけるタイミングを探していた。しばらく歩いたところで、川のほとりに架かる橋に差し掛かった。橋の下には十メートルほどの川が急流となって流れ、大きな岩に衝突しては白い水しぶきを上げている。その白い飛沫を見つめていると、なぜか不思議と心が静まっていった。
二人ともいつの間にかその光景に見入っていた。川面には無数の岩が横たわり、水流をせき止めているように見える。なのに水は少しも止まらず、ただひたすら低い方へと流れ続けている。まるで絶え間なく続いていく時間のように。
「川べりまで降りよう。」俺がそう提案すると、千姫はうなずいた。俺たちは川辺に続く階段を降り、絶え間なく流れる川のほとりに腰を下ろした。途切れることのないその水の流れを、二人で飽きずに眺めていた。
千姫がふっと吹き出しそうに笑った。俺は少し怪訝そうに尋ねる。「どうしたの?」
千姫は笑みを浮かべながら少し自慢げに言う。「だって、やっぱりここに連れて来てくれたから、予想が当たって、ちょっと嬉しい気分なの」
「そうなの?……この場所は俺にとって一番好きなところなんだ。話をするには本当にぴったりでさ」俺は少し照れくさそうに頭をかいた。
千姫は笑顔で続けた。
「ねぇ、ここって惠君が私と初めてデートした場所でもあるんだよ?だからちょっと驚いちゃった」
「そうなんだ...俺はただ、千姫と話をするならここが一番いいと思ってたんだ」
そう答えると、俺たちはまた沈黙を続けた。でも、先ほどまで二人で並んで歩いていたときのようなぎこちなさは消えていた。
千姫もいつもの調子が戻り、悩ましげだった表情はすっかり消えている。俺たちはただ川の流れを眺め、その澄んだ水音に耳を傾けていた。心地よい静けさに包まれて、何もかも忘れそうだった。
すると彼女がポツリと口を開いた。「なんだか、こうして普通に話すのって久しぶりな気がするね」その声にはどこか淡い哀しみが混じっていた。
「ああ……」彼女の言葉にどう返せようか戸惑ってしまった。
千姫はふふっと笑い、「それは誰かさんがずっとちーちゃんを避けてるのが悪いんじゃない?」と冗談めかして言う。
その口調にはまったく責める気配がなく、先ほどの哀しげな声は錯覚だったのかと思わせるほどだった。
「ごめんね...俺は」
謝ろうとしたが。その話を遮るかのように、千姫は指先で俺の腰をつんつんと突いた。「うわっ!」思わず声が出るほど急所を突かれた。
少し冷静さを取り戻した後、俺は腰を押さえながら苦笑いした。
「びっくりしたわ。これが元カノってやつか、俺の弱点をよく知ってるな」
千姫は悪戯っぽく微笑んで言う。「そうよ、元カノだよ。だって惠君にはもう素敵な彼女がいるんだからね、この~浮気者めっ♪」そう言うと、千姫は俺の腹や脇腹をさらにくすぐり始めた。
千姫のくすぐりに俺は笑いが止まらなくて、身をよじりながら、地面に倒れこんでしまいそうになった。
「もう降参、降参、許して千姫...」
「ごめんなさいは?」
「ごめんごめん!でもわざと避けてるのじゃないから、なんか無意識的にというか」
「もう本当、しょうがないんだから」
千姫はくすぐりを止め、こちらを見てニヤリと笑った。
「でも、あの子とはまだ付き合ってないよ」
「まだってことは……いつかそうなるの?」
「……うん、そうなるかもしれない……」俺は小声で答えた。
千姫は俺を見ずに川面を見つめながら言いう。「へぇ、そうなんだ。昨日惠君に会ったとき、私ももしかして……って考えてたよ」
俺も川を見つめながら、静かに口を開いた。「実は、千姫にどうしても話さなくてはいけないことがあるんだ……」お互い顔は合わせていなかったが、もう切り出すタイミングだと俺は感じていた。
千姫も静かに口を開いた。「私も、惠君に伝えなければいけないことがあるんだ」
「千姫は……、俺に何か隠してるのか?」俺は先に問いただした。
千姫は驚いたような表情を浮かべて答える。「隠し事?何のこと、けいくん。私はけいくんに隠してることなんて何もないよ」
「君が俺と別れた理由って、単に今の俺に恋愛感情がないってだけじゃないんだろ? もっと他に理由があったはずだと思うよ。 それに、もし俺たちが三年間ずっと一緒だったっていうなら、なんで俺の家には二人の過去の痕跡がまったくないんだ?」俺は身体を千姫の方へ向け、真剣な顔で問いかけた。
「『恋愛感情がない』なんて嘘だろ? あの三日間本当に楽しかったと思うのは俺だけじゃないはずだ!」俺はそう続けた。
千姫との関係をはっきりさせるために、俺は今日ここに来たのだった。
千姫は両肩をかすかに震わせ、うつむいたまま何も言わなかった。
俺は思わず千姫の手を強く握った。「千姫はどうして、俺たちの過去を隠そうとするの?」
千姫は首を傾げて俺を見つめ、どこか儚く小さく笑ってくれた。「やっぱり、惠君には叶わないみたいだね」




