第十四章
家に帰ると、彩花はアルコールを含ませた消毒綿で、俺の顔の傷や転んだときにできた擦り傷をそっと拭いてくれていた。
「痛っ……」思わず声を漏らした。
彩花は優しい声であやしてくれる。「少しだけ我慢すれば大丈夫だよ」
今の声を聞くとまるで別人のようだ。もし、最初に会ったときの彩花を凶暴なウサギだとするなら、目の前にいる今の彼女はおとなしい子猫だ。
彼女が細やかに優しく介抱してくれたこと。初めて家に来てもらったはずなのに、不思議と懐かしい気持ちになる。まるで昔、誰かにこんな風に看病してもらったことがあるかのような安心感だった。
処置が終わると、彩花は俺の隣に来て言った。「そろそろ理由を話してくれてもいいんじゃない、先輩。どうして殴られたんですか?」
俺は思わず彩花の手をギュッと握りしめた。彩花はすぐに顔を赤らめ、「ちょ...先輩、いきなり手を握るとか、二人きりだからといって、変なことしないでよ」と慌てて言い返した。
俺はそのまま彼女の手を離さずにさらに強く握って、彼女の目を見つめたまま言った。
「彩花、俺はお前のことが好きだ」
その真剣さ、彩花は驚いたように目を丸くして、片手で口元を押さえた。
「でも、俺は彩花とは付き合えないんだ……」
「どうして……!」その言葉に動揺するあまりに、彼女は思わず俺のシャツを掴んで声を叫び出した。
俺は少し俯いてから、静かな声で説明する。
「彩花のことは本当に好きなんだ。でも、今の俺は三年前の俺だ。その後の三年間の記憶を完全に失ってしまっている。友達の話によると、その三年間は俺は千姫のことをすごく好きだったらしいんだ。だから、もし記憶が戻ったら、俺は彩花のことが好きな気持ちが変わるかもしれない……」
言い終わると、部屋には窓の外のカラスの鳴き声だけが響いていた。
彩花は黙って俺の隣に座り、震える俺の手をそっと握り返した。
「先輩……もし先輩が一生記憶を取り戻せなかったら、私たちはずっとこのままですか?」
彼女は真剣な表情で俺を見つめた。そのまっすぐな視線に耐えられず、思わず俯いてしまった。
それでも、彼女は声をゆっくりと続けた。「それに私はそんなに安っぽい人間ですか。先輩? 先輩が記憶を取り戻したら千姫先輩を選ぶのですね。取り戻せなかったら、私を選ぶのですね。それって、私が先輩にとって千姫先輩の代わりだけじゃないですか?」
俺は彩花の顔を見上げ、強く否定した。「違う……彩花が千姫の代わりなんて、そんなこと俺は一度も考えたことがない。本当に、彩花のことが好きなんだ!」
彩花は優しく頬を触れてくる「もちろん、冗談ですよ、先輩がそう思うはずがありませんって。でも私だって先輩を困らせたくないんだ。」
「たとえ先輩に千姫先輩のことを好きだった記憶が戻ったとしても、私は絶対にもっと先輩に好きになってもらいます。必ず先輩に選んでもらうんだから!」
「今度こそ、先輩を誰にも渡したりしないから...」言葉の最後に、彼女が聞こえないくらいにぽつりと呟いた。
「俺は……」と言いかけたが、言葉が喉に詰まってしまった。
「ねえ、先輩、私はこれからも先輩と一緒にいたい。一緒にいて欲しい。過去のことは大事だと思うけど、今も同じくらい大事だと思う。先輩はそうは思いませんか?」彼女は俺の手を握りしめながら大切な気持ちを伝えてくる。
「よし、それじゃあ私はもう帰りますね。また明日!先輩」彼女はとびきりの笑顔を残して、玄関の方へ向かっていった。
「うん...また明日」
俺はしばらく彼女の言葉に脳内をうめ尽くされた。




