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透明人間の不在証明

作者: 月読二兎

 健太は、自分が少しずつ透明になっているような気がしていた。


 夕食の時間は、その感覚が最も強くなる。ダイニングテーブルには四つの席があり、四つの身体が座っている。しかし、そこに宿る心はバラバラの方角を向いていた。


 父さんは、箸を持つ手とは逆の手にスマホを握りしめ、眉間に皺を寄せながらニュースサイトをスクロールしている。母さんは、健太の正面に座ってはいるが、その視線は壁掛けテレビの騒々しいワイドショーに釘付けだ。妹の美咲は、両耳を白いイヤホンで塞ぎ、自分の世界に閉じこもっている。時々、くすくすと笑い声を漏らすが、それは健太たちのいるこの世界に向けられたものではない。


「今日、部活でさ……」


 健太は、わざと少し大きめの声で切り出した。湯気の立つ唐揚げを口に運びながら、誰かの反応を待つ。


「……レギュラー決めの試合があったんだ」


 沈黙。カチャリ、と父さんの箸が皿に当たる音だけが響く。母さんの目はテレビから離れない。美咲は動画に夢中だ。健太の言葉は、テーブルの上を漂い、誰にも拾われることなく、換気扇に吸い込まれて消えていった。


 まるで、誰もいない空間に向かって話しているみたいだ。


「健太、醤油とって」


 母さんが、テレビから一瞬だけ視線を外し、言った。健太は黙って醤油差しをスライドさせる。用事がある時だけ、彼の存在は輪郭を取り戻す。彼は便利な腕であり、物を取るための装置だ。それ以外の何者でもない。


 翌日、健太は熱を出した。喉が痛み、体中の関節がきしむ。学校を休むと連絡を入れた母さんは、「じゃあ、ポカリとゼリー、冷蔵庫にあるから。私、仕事行くからね」とだけ言って、慌ただしく家を出ていった。


 健太は一日中、薄暗い自室のベッドで過ごした。静寂が耳に痛い。彼の部屋には、階下からの生活音さえ何一つ届かなかった。夕方、父さんと美咲が帰ってくる気配がしたが、誰も彼の部屋のドアをノックしなかった。


 腹が空いていた。しかし、体を起こす気力もない。階下から、いつもと同じようにテレビの音が聞こえ、食器の音がする。夕食が始まったのだ。


 もしかしたら、誰かが「健太の分は?」と聞いてくれるかもしれない。母さんが「あの子、大丈夫かしら」と様子を見に来てくれるかもしれない。淡い期待を抱きながら、健太はドアに耳を澄ませていた。


 しかし、聞こえてきたのは、楽しげな笑い声と、後片付けの音だけだった。


 彼の分の夕食は、用意されなかった。彼が家にいるという事実さえ、家族の意識から抜け落ちていた。


 その瞬間、健太の中で何かが決定的に壊れた。


 孤独が、冷たい水のように体の芯まで満たしていく。俺は、ここにいてもいなくても、同じなんだ。見えていないんだ。だったら――。


 歪んだ考えが、熱に浮かされた頭を支配した。

「本当に見えなくなったら、気づいてくれるだろうか」


 熱が下がってから、健太の奇妙な計画は始まった。


 まず、本棚を埋め尽くしていた漫画やゲームをリサイクルショップに売り払った。得たなけなしの金は、彼の孤独な逃避行の軍資金となる。壁一面に貼っていたバンドのポスターはびりびりに破り、燃えるゴミの日にこっそり出した。小学生の頃にもらったトロフィーや、数少ない友達と笑っている写真は、しばらく眺めた後、一つずつゴミ袋の底へと沈めていった。


 自分の生きてきた証を、自らの手で抹消していく。それは、悲しい復讐であり、誰にも届かない最後のSOSだった。


 しかし、家族は誰も気づかない。部屋から物が減っていっても、誰も何も言わない。健太の輪郭は、物理的にも少しずつ薄くなっていくようだった。


 そして、ある金曜日の夜。

 健太は、自分の部屋を空っぽにした。教科書も、服も、趣味の道具も、すべてを大きなリュックに詰め込んだ。がらんとした部屋は、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように、静まり返っている。


 置き手紙は書かなかった。透明人間は、筆跡さえ残さないものだ。


 玄関のドアを静かに開け、一歩外に出る。家の中からは、いつもと同じテレビの音が漏れ聞こえていた。誰も、彼がいなくなることになど気づいていない。


 それから三日が過ぎた日曜の夜。

 ようやく、家族は異変に気づいた。


「あら、健太は? 週末ずっと見てないけど、部活の合宿だったかしら」

 母さんの言葉に、父さんはスマホから顔を上げた。

「いや、何も聞いてないぞ」

「美咲、何か知らない?」

 イヤホンを外した妹は、きょとんとした顔で首を振った。


 健太の部屋のドアが開け放たれる。空っぽの部屋を前に、三人は言葉を失った。事態を把握した彼らは警察に連絡し、やがて警官が二人やってきた。


「最後に息子さんと話したのはいつですか?」

「最近、何か変わった様子はありませんでしたか?」

「悩んでいるような素振りは?」


 警官の質問に、母さんは何も答えられなかった。ただ、「あの子、最近どんな様子だったかしら……」と、焦点の合わない目で呟くだけだった。父さんはうつむき、妹は不安そうに唇を噛んでいる。


 彼らは、自分たちが見ていなかった息子の輪郭を、必死で思い出そうとしていた。最後に交わした言葉は? 最後に見た表情は? その食卓での顔は、どんな顔をしていた?


 しかし、思い出そうとしても、そこにいるのは、ぼんやりとした、輪郭のない何かだけだった。


 彼らが自らの手で作り出した、愛する「透明人間」の姿を、もう誰も正確に描くことはできなかった。


読んでくれてありがとう。

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― 新着の感想 ―
多くの読書さんが恐らくは悲しい結末だと思うでしょう。ただ、ラストで家族が主人公を杜撰に扱っていた事を後悔して欲しいものです。そして物語の向こう側で主人公がどうか、報われる人生を送ってほしいと感じました…
2025/07/03 18:19 甘口激辛カレーうどん
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