5 小鬼と対峙!
じとりと湿った空気。
遠くを見通すことを拒む、白い霧。
そして......嗅いだことのない、仄かに吐き気すら催す不快な臭気。
ダンジョン“小鬼洞窟”。
その立地の悪さ等の理由で不人気ではあるが、上層の難易度に関して言えば、“初心者向け”のダンジョンである。
そう......口コミサイトには、記されていたが。
確かに。
確かに、影山黒蜜は今、異界にいるのだ。
足を止め、知らぬうちにかいていた額の汗を覆面で拭き、大きく息を吸った彼女は......それを実感していた。
初心者向けと評されようとオススメ度を示すスコアが低かろうと。
確かにこの洞窟はダンジョンであり、非日常であり、試練である。
ドキドキと......聞いたことがない程に、心臓の音がやかましい。
しかし、恐れてばかりはいられない。
己が目指すは、『忍者』。
恐れを知らぬ、鋼の戦士。
前へと踏み出すこの一歩、一歩こそが。
理想の自分を形作っていくのだ。
そう、自らを叱咤しながら。
ネットで買ったクナイを握りしめ、黒蜜は洞窟内を前へ、前へと進んだ。
ちなみに、その刃渡りは10cm以上。
ローファンタジー世界にあるこの日本において、銃刀法は息をしていない。
......なお幸いなことに、一本道である。
壁面、あるいは天井に埋まっている謎の鉱石により周囲は照らされているし、見通しは悪くとも......少なくとも道に迷う心配がない。
その事実は、黒蜜の心を大きく勇気づけてくれた。
しかし、そうは言っても、彼女はビギナー探索者。
故に。
ジャリ、ジャリと。
霧の向こうから......小石を踏みしめ自らに向かって来る足音を聞いてしまった、その時に。
思わず驚きで飛び跳ね、後ずさってしまったことには......ご容赦願いたい。
◇ ◇ ◇
「ゲギギ......ギヒ、ギヒ」
霧をかき分け、臭気まき散らし。
いやらしく笑いながら現れたのは、小鬼であった。
額からは小さい角が二本伸び、その口は子どもの頭ならば一飲みにできるくらいには大きい。
“小鬼”とは言うが、その身長は黒蜜よりも少し小さいくらいである。
りんごのように赤い肌のその体は筋肉質でゴツゴツしており、女子高生が容易く倒せる相手ではないことは明らかだ。
「ギヒヒッ!ギャハーハハッ!」
小鬼は黒蜜......人間の姿を見つけるとジタバタと暴れながら狂ったように笑い、手をバンバンと叩いた。
そして......。
「ギギギャハハーーーッ!!」
猛然と......黒蜜に向かって飛びかかった!
勢いはあれど、方向転換のできない跳躍という手段を初手で選ぶあたり、さすがは上層の魔物と言うべきか。
実戦は初めてであるはずの黒蜜には、不思議と、その行動により大きな隙が生まれているという事実が理解できた。
しかし。
黒蜜はその隙を突こうとはせず......半ば無意識に後方へと跳躍し、小鬼と距離をとった。
心臓が、痛いほど高鳴る。
クナイを握る手の平に、大量の汗がにじむ。
落ち着け......落ち着け、と。
黒蜜は何度も心の中で繰り返し、歯を食いしばって魔物を睨みつけた。
「ゲヒ、ゲヒ、ゲヒ!ギギャハーーーッ!!」
小鬼は逃げ腰の黒蜜を嘲り笑い、追撃を試みる素振りがない。
隙だらけであり、いかに恐ろしく感じようとも......それ程までに、雑魚なのだ。
決して勝てない相手ではない。
そもそも。
数値としては表示されないためわかりにくいが、『にんじゃ(笑)』はハズレロール然としたその名前とは裏腹に、かなり優秀なステータス補正を得られるロールである......と、黒蜜は感じている。
どれだけ全力で走ろうとも全然疲れないし、五感はかなり鋭敏になっている。
そのおかげで陰口はばっちり拾ってしまうし、洞窟の臭気もかなりきついのだが、それはともかく。
初期スキルこそ得られなかったものの、『にんじゃ(笑)』は決して、戦えないロールでは、ない。
間違いなく、戦士のためのロールなのだ。
だから『にんじゃ(笑)』は既に、『忍者』であると言っても過言ではない。
だから、こんなところで。
つまずくわけには、いかない!
『忍者』として!
無様を晒すわけには、いかないのだ!
黒蜜はその瞳に闘志を燃やし、クナイをきつく握りしめた!
そしてそれを大きく振りかざし、小鬼を斬りつけるべく駆けだそうとした......その時である!
『ブブーーーーーーッ!!!』
黒蜜の脳内に、突然そんな電子音が鳴り響き......。
ちゃんと握っていたはずの、クナイが。
スポンッ、と。
すっぽ抜けたのだ。