38 ハンナの願いごと
「エリオットさまっ」
ハンナが勢いよく執務室の扉を開くと、窓辺に立っていたエリオットがゆっくりと振り返った。
「私はそろそろリベットの森に行かなくては……王妃さまのお許しは、いただけるかな?」
冗談めかしてそんなふうに言った直後、エリオットは激しく咳込み出し、執務机に片手をついた。
もう、立っているのも限界なのだろう。
「エリオットさま。どうかベッドへ。今はなにも考えず、お休みくださいませ」
目を丸くする彼に、ハンナはきっぱりと告げる。
「リベットの森には私が向かいます。無策ではありません。必ず魔獣を討伐してまいります」
「な、なにを? そんなことは認めない。絶対に認められないぞ」
滑稽なほど慌てるエリオットを見て、自分がどれだけ彼に大切に思われているのかを、あらためて実感する。
それだけで力がみなぎり、魔獣なんか怖くないと思えた。
「無礼を承知で申しあげますが、今のエリオットさまよりは私のほうがきっと戦力になるはずです」
「ぐっ……しかし、最愛の君を危険な場所に送り込むなんてことは――」
ハンナはエリオットの肩をグッとつかみ、毅然と告げる。
「たしかに私は、あなたの最愛の妻ですね。ですが、その前に……このオスワルト王国の王妃なのです。民と土地を守る責務がありますわ」
ハンナは艶然とほほ笑んだ。
「私をこの国の王妃にしたのはエリオットさまですよね? どうか、王妃の務めを果たさせてくださいませ」
ハンナが連れて行くのは、先の討伐でダメージを受けた攻撃魔法を使う者ではなく植物魔法が使える人間。そして、彼らが魔法を使う間に魔獣を退けてくれる兵士たち。
「ほ、本当に私なんかがお役に立てるのですか?」
「えぇ、ものすごく大切な戦力よ!」
困惑しきりのナーヤに、ハンナは自信たっぷりにほほ笑んでみせた。
リベットの森に向かう準備をすべて終えたハンナは、誰もいない廊下で足を止める。
外はすっかり暗くなり、闇色の空が広がっていた。
ハンナは出窓を開き、夜の風を迎え入れる。ひやりと冷たく、厳かで、そこに彼がいるような気がした。
「いらっしゃいませんか? ハーディーラさま。どうか姿を現してくださいませ」
闇はなにも答えない。だが、ハンナはなおも続けた。
「あなたがエリオットさまの命しか聞かないことはわかっています。でも、彼に関わることなのでどうか……」
強い風が吹き、木々がザザーと揺らめいた。まるで彼に道を譲るように。
闇と同化していた一匹のコウモリの輪郭がだんだんとはっきりしていく。ハンナの前まで来て、彼はしゅるりと人間の姿になる。
「呼んだか?」
金に輝く不敵な瞳。出窓に片膝を立てて座るのは、闇の精霊ハーディーラだ。
「呼びました。でも、来てくれるとは思っていませんでした」
呼んだハンナ自身が一番びっくりしている。
「やっぱりと思われるのは癪だからな」
フンと彼は鼻を鳴らす。つまり、ハンナが来ないだろうと思っていたから彼は来たということらしい。どうしようもない天邪鬼だ。
「なにか用か?」
「ハーディーラさまに聞きたいことがあるのです。あなたの魔法のことです」
「俺さまにできないことはないぞ」
腕を組み、彼はグッと胸を張る。が、ハンナの疑念の眼差しと「……」という台詞を受けて、小さく肩をすくめた。
「と、かっこよく言いたいところだが、無理なものも多少はある。たとえば魔法は不可逆なもの。一度かけてしまったものを取り消すのは非常に困難だ」
「大丈夫です。取り消しを望むことはありません」
「あと、いつも言っているように明るく楽しげな魔法は苦手分野だな」
いたずらが見つかった子どものような顔で、彼は口をへの字にする。
「それも心配いりません。ちょっと後ろ暗い、人には言いたくない感じの……ハーディーラさまの得意分野かと存じます」
「ほぅ」
ニヤリと彼は片頬を緩める。
ハンナの頼みたいことを、薄々察しているのかもしれない。なにせ六大精霊なのだ。人の心のうちを読むくらい、朝飯前だろう。
その証拠に、得意分野のどういう魔法か?と、彼は聞いてこなかった。
「ハーディーラさまが、私の頼みを聞き入れてくれる可能性はどのくらいありますか?」
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