2 十七年ごしの求愛
オスワルト王国の豪華絢爛な王宮、その最奥に位置するのは時の国王陛下の寝所である。
ワインを楽しみすぎた翌朝のように重いまぶたを、ハンナはゆっくりと開ける。目覚めの気分は決して悪くない。むしろ爽快でもある。が、視界に映るすべてに、小さな違和感がまとわりつく。
(日差しがまぶしい。それに、ナパエイラに来てからはもっと厚手の布団で眠っていたはずなのに)
ハンナは上半身を起こし、自分の居場所を確認する。ふかふかのベッドの上、軽やかな羽毛の布団がおなかの辺りにかけられている。
窓から燦々と差し込む陽光は、ナパエイラには縁遠いもの。そもそも、窓の形も嫁いでからの二年間で見慣れたものとは全然違う。
ナパエイラの窓は、暴力的に押し寄せてくる寒気を少しでも遮断するためにかなり厚みのある造りをしているのだ。
見慣れぬひし形の窓の外では、赤や黄色の花々が咲き誇り、草木はすくすくと生育していた。
(ナパエイラの景色ではない? あの赤い花は……懐かしいオスワルトの……)
そこでようやく、ハンナは違和感どころの話ではなく、すべてがおかしいと気がつく。
(そうよ。わたしが目覚めること自体が変だわ。だって、呪い殺されたはずなのに!)
思考は重要な局面に差しかかっているというのに、そこでプツンと遮断された。
誰かに、ものすごい力で抱き締められたからだ。
「……え?」
「ハンナッ」
ありったけの愛を込めたような激しさで自分を抱くのは、いったい誰なのだろう。夫であるジョアンは、天地がひっくり返ってもこのようなことはしないはず。
「あ、あの……」
ハンナの視界の真ん中に、キラキラと輝く極上のサファイアが飛び込んでくる。
月の光を閉じ込めたような銀髪が、形のいい額をさらりと流れている。高い鼻筋に優美な口元。神々しいほどの美貌を持つ男性だ。
この美しい瞳には見覚えがある気がする。しかし……。
「ハンナ。私がわかるか? エリオットだ」
エリオット、その名も懐かしい響きだ。けれど、目の前の美丈夫はハンナの知る〝エリオット〟ではない。
(殿下と同じ名前、同じ色の瞳を持つこの方は……)
「あの、あなたはいったい誰なのでしょう?」
「忘れてしまったなんてひどいな。君の教え子のエリオットだよ」
「……エリオット殿下?」
呆然とつぶやくハンナの脳裏に、彼の姿が蘇る。
出会ったときのエリオットは十五歳、『不遇王子』と呼ばれていた。
銀髪は艶がなくボサボサで、お世辞にも美しいとは言えなかった。痩せた身体に白い肌がどうにも不健康で……。
ほかに引き受けてくれる令嬢がいない、そんな理由から自分は彼の教育係を務めていたのだ。
(でも、嘘よ。この方がエリオット殿下のはずがない)
だって彼はハンナより五つも年下だったのだ。目の前にいる、エリオットを名乗る男性はどう見てもハンナより年上。三十歳前後と見受けられる。
「まぁ、君が驚くのも無理はない。なにせ、十七年ぶりの再会だからね」
「じゅ、十七年? あぁ、ダメだわ。頭が混乱して……私は死んだはずでは?」
「落ち着いて、きちんと説明をしよう」
目まいを覚えて、ぐらりと傾いたハンナの上半身を彼がしっかりと支えてくれる。
それから、彼が話し出す。
まず、ここは嫁ぎ先のナパエイラではなく、やはり故国オスワルトのようだ。
「……そうですよね。この温かさはナパエイラではありえない」
温暖なオスワルトと違い、ナパエイラは極寒の国だ。空気も、景色も、すべてが異なる。
「嫁ぎ先のシュミット伯爵家でのことを、覚えているかい?」
「えぇ。覚えておりますわ」
二年間のむなしい結婚生活。そして、最期のとき。
魔術師が唱えた不思議な言葉も、リリアナの満足げな笑みも、ハンナにとってはつい昨日の記憶と感じられる。だからこそ、この状況がどうしても理解できないのだ。
「私は……夫の愛人に呪い殺されました。なのに、どうして? これはすべて夢なのでしょうか?」
「夢じゃない。君はきちんと生きているよ。実はね――」
彼の形のいい唇が紡ぐ事の経緯は、古ぼけたお伽話のようでハンナの理解の範疇をこえていた。
「魔術師が呪詛を間違った?」
「あぁ、君にかけられたのは眠りの呪詛」
そこで彼は言葉を止め、小さく息を吐いた。
(私が……眠っていた?)
「そう、君は眠っていただけだ。――十五年間ね」
ハンナは二十二歳の身体のまま、眠り続けた。
五つ年下だったはずのエリオットは現在、三十二歳。ハンナより十も年上になってしまったらしい。彼はそう説明した。
「君が嫁いでしまって二年、眠りについてから十五年、合わせて十七年。私はずっと……この日を待ちわびていた」
歓喜と興奮に、エリオットは声を震わせた。
ハンナの記憶にあるものとはすっかり変わった、低く、艶っぽい、大人の男の声音だ。
ハンナはあらためて、逞しい腕で自分を抱く彼を正面から見つめた。なんと、堂々たる姿だろうか。
自信に満ちあふれたその表情は、まぶしすぎて直視しづらい。
ならばと視線を落としたら、今度は薄いシャツごしでもはっきりとわかる男らしい胸板が視界に飛び込んでくる。
人妻とはいえ純潔のハンナには刺激が強すぎた。
あまりにも麗しすぎて……あのエリオットと同一人物とは、にわかには信じがたい。
「――ハンナ」
彼の瞳がハンナを射貫く。
(あぁ、でもこのサファイアの瞳。これだけは変わっていませんわ)
彼はいつも、美しい瞳をまっすぐに自分に向けてくれていた。
現在の彼とかつての少年が、ハンナのなかでぴたりと重なる。
と同時に、ハンナはハッと我に返り、慌てて彼の身体を押し返した。
「――エ、エリオット殿下! なんてことを! 大国オスワルトの王子殿下が、私のような身分の女を抱き締めたりしてはいけません」
衝撃の事実が続くあまり、このありえない状況に気がつくのが遅れてしまった。慎み深く、礼儀正しいのが美点と評されてきたハンナにはあるまじき失態だ。
だが、どれだけ強い力で押し返そうとしても、すっかり大人になってしまった彼の身体はピクリともしない。
「で、殿下。どうかお願いです……私は人妻です。今すぐこの腕を……」
自分などとの醜聞で、エリオットに不名誉を与えるわけにはいかない。
泣き出しそうな顔になるハンナにエリオットは甘く、不敵に笑む。
「君の願いはなんでも叶えてあげたいけれど……それだけは聞けないな。やっと会えたハンナを手放すなんて不可能だ」
「で、殿下!」
クスクスと笑いながら、エリオットが言う。
「そうそう。私はもう第四王子殿下ではないよ。この国の、王になった」
節の目立つ、大人の男の手がハンナの頬に添えられた。ゆっくりエリオットの顔が近づき、コツンと額が合わさる。
「オスワルト王、エリオット・カーミレスが望むものはハンナだけだ」
高貴な青い宝石に魅入られ、ハンナは身じろぎもできなかった。
「――狂おしいほどに、君だけを愛している。どうか、私の愛を受け入れておくれ」
(……殿下は熱でもおありになるのかしら? それとも、私はやっぱり夢を見ているの?)
夫であるジョアンやリリアナはどうしているのか?
なぜ自分はオスワルトに戻されたのか?
聞きたいことは山ほどあったけれど、もうなにを聞いても理解できない気がする。ハンナの脳はすでに機能停止を起こしていた。