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20 一度くらい……

(まぁ、ここまできたら死ぬまで純潔を貫いてみせましょうか)


 その夜。なめらかな絹の夜着に着替えを済ませ、ハンナはベッドに腰かけた。


 夫であるジョアンとはとうに寝室を別にしている。彼の寝室には今夜もリリアナが忍んできているのかもしれない。


 ハンナはスッと人さし指を動かす。すると、ベッド脇にある小さな丸テーブルの上に置いた、故国の両親から届いた手紙が浮きあがり手元にやってきた。


 ハンナの使えるささやかな魔法。


 この大陸には魔法を使える人間が多く存在する。ハンナが操れるのは、湯を沸かすとか、ペンを動かして文字を書くとか――これは、両手で作業をしながら書き物ができるので地味だけれど意外と便利だ――生活魔法と呼ばれるもの。魔法ランクとしてはもっとも下位。


 戦闘で役に立つ攻撃魔法や怪我を治す治癒魔法、そんな能力を持つ人間はどこの国でも重宝される。


 上位魔法を使える者は、王族や上級貴族に多い。いや、因果が逆だ。上位魔法のおかげで、王族や貴族として成りあがることができたのだろう。魔力は血縁に遺伝するのだ。


 ナパエイラにも魔法を使える者はいるが、オスワルトより数が少ない印象だった。


 ジョアンはまったく魔法が使えず、コンプレックスがあるらしい。ハンナの地味な生活魔法にすら劣等感を刺激されるようので、彼の前では決して使わないようにしている。


 ハンナは懐かしいオスワルト語で書かれた文字を目で追った。


 家族や親族の近況、サラヴァン家の小さな領地で起きたあれこれ、王都での流行、そんな内容がつづられている。


 オスワルトの優しい風が吹いたような気分になって、ハンナの顔も自然とほころぶ。


 が、次に続いた文章に、ハンナは眉根を寄せた。


【夫婦関係はうまくいっているだろうか。遠い異国でハンナが心細い思いをしていないか、とても不安だ】


(うっ、見抜かれていますね)


 心配そうな両親の顔が目に浮かぶ。


(まぁ、二年も身ごもらなければ、それは察するものもあるでしょう)


 実際、今の自分は幸せとは言いがたい。政略結婚とはいえ、夫に見向きもされない日々はむなしく、なにか重苦しいものが澱のように心に蓄積していくのだ。


 夫に対するのと同じくらい、リリアナにも腹が立つ。ふたりの関係はハンナが嫁いでくるよりも以前から始まっているから、百歩譲って愛し合うのは許そう。


 だが、我が物顔でこの屋敷を闊歩する神経は理解できない。正妻であるハンナをどこまで小馬鹿にすれば気が済むのだろうか。


 素晴らしいドレスを台無しにされた恨みだって、向こう十年は忘れられそうになかった。


(とはいえ、不幸かと問われましたら……)


 答えは否だろう。


 シュミット伯爵家は間違いなく裕福で、ハンナは実家にいた頃よりずっと上質なものに囲まれて暮らしていた。


 同情もあるのだろうが、使用人たちは異国人であるハンナにも親切で『奥さま』として丁重に扱ってくれる。


 自分たちの結婚は、オスワルトの第一王子フューリーが斡旋したもの。だからリリアナがあれこれ画策したところで、ジョアンは自分を追い出すまでのことはしないはず。


(まぁ、可もなく不可もなく六十点。とても私らしい結婚生活かもしれませんね)


 ハンナは足るを知る人間だ。衣食住が保証されているだけで、十分に幸せなのだと理解している。


(結婚生活は順風満帆、そう返事をしましょう)


【そうそう。ハンナが教育係を務めたエリオット殿下だが、見違えるように精悍になって、メキメキと頭角を現しているよ。ひょっとすると彼が王位を継ぐ可能性も……なんて噂がささやかれるほどにね】


 手紙の最後の一文に、ハンナは目を留め「まぁ」と口元を緩めた。


 とてもとても、懐かしい名前が記されていたからだ。


 返事を書き終え、ペンを置く。それからどさりと身体をベッドに沈ませた。


(エリオット殿下も……がんばっていらっしゃるのね)


 ハンナは頭のなかに彼の姿を描く。


 別れた日から二年が過ぎているから、現在の彼は十七歳になっているはず。


 ハンナの知る十五歳の彼を、二年ぶん成長させてみようと頭のなかで空想してみたものの、うまくいかない。


 あの年頃の数年間はとても大きく、きっとハンナの想像など軽々とこえているだろう。


『ハンナ。キスがしたい』

『君がいい。君とじゃなきゃ嫌なんだ』


 まだ無邪気さを残しつつも、ハンナが思っている以上にしっかりと〝男〟だった彼の熱い瞳を思い出す。


 あの日、ささやかれた台詞が耳に蘇ってきてハンナの胸をかすかに熱くさせた。


 ハンナは自身の白い指先でそっと唇に触れる。


 今までも、これからも、誰のぬくもりも受け取ることのない、かわいそうな唇だ。


(いっそ、あのとき一度くらい……)


 馬鹿なことを考えた自分に、思わず苦笑を漏らす。


 当時の彼は十五歳。一途な思いは、雛鳥の刷り込みと同じで正しい愛とは……言い切れない。


 そもそも身分が違う。どこをどう考えても、あのときの自分の判断は正しかった。


 そう確信しているのに、彼を思い出すと、どこか未練に似た思いが湧きあがり胸がいたずらに疼いた。


 彼とキスする、その瞬間を妄想しかけて……ハンナは慌てて頭を振る。


(仮にも夫のいる身で、ほかの男性とのキスを想像するなんて……天罰がくだってしまうわね)


 そう、ハンナも多少の天罰は覚悟していた。


 だが、まさか現在進行形で、夫の愛人が自分を呪い殺す計画を立てているとは露ほども想像していなかった。

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