プロローグ 死
連載作品です。もう完結まで書き終えておりますので、少しずつ公開していきます。
割れたグラスの破片とこぼれた赤ワインを見つめながら、ハンナ・シュミット伯爵夫人はグッと下唇を噛んだ。痺れ薬の混入されたワインを飲んでしまったせいで、冷たい床に倒れ込んだハンナの身体は鉛のように重く、まったく動かすことができない。
黒いマントに身を包んだ魔術師がハンナを死に至らしめる呪詛を紡ぐ。
「ふふふ。これでこの女は死ぬのよね? 自然死となんら区別ができない状態で!」
魔術師の肩に手をかけながら、女が勝ち誇った笑みを浮かべる。
リリアナ・アルトアン、ハンナの夫であるシュミット伯爵の愛人だ。
彼女の現在の肩書はアルトアン男爵家の未亡人だが、その出自には謎が多い。下町の娼婦だったなんて説もある。男の情欲を誘うコケティッシュな顔面とボリューミーな肉体。そのふたつの武器だけで成りあがってきた彼女は、野心家でやり手だ。
次は、伯爵夫人の座を手に入れることに決めたらしい。
――正妻であるハンナを殺すことで。
薄れゆく意識のなかで、まだ二十二歳のハンナは自分の死を静かに受け止めた。
(あぁ、こんなふうに死ぬのなら……あのとき彼と……)
若さと情熱がキラキラと輝く、サファイアの瞳を思い出す。地味すぎる自身の人生がもっともきらめいたその瞬間が蘇り、ハンナはうっすらと口元をほころばせる。
(どうか、殿下の未来が幸せに満ちたものでありますように)
そうしてそのまま……人妻ながら正真正銘、純潔の乙女であるハンナは眠りについた。
だから、このあと事態が思わぬ方向に転がったことを彼女は知らない。
呪詛を唱え終えた魔術師が、リリアナに向かって自信満々にうなずいてみせる。
「ほら、夫人は死んだよ。ここに記載されている四十二番の死の呪詛により……」
手にしていた分厚い書物をのぞいた彼の表情が、一瞬にして青ざめる。
「ん? 四十二番の呪詛は……あ、やべ」
「なによ、どうかしたの?」
口をとがらせるリリアナに、魔術師はバツが悪そうに視線をそらしながら返事をする。
「――間違えた。四十二番は死の呪詛じゃなく、眠りの呪詛だった」
「はああぁぁ?」
鬼の形相になったリリアナが彼の肩をつかみ、揺さぶる。
「眠らせてどうするのよ? 殺す約束で大金を払ったのよ! 今すぐ呪詛をかけ直して」
「そ、それは無理だ。今の呪詛の効力が解けて、つまり眠りから目覚めたあとじゃないと」
「いつ目覚めるのよ? 一時間、五時間? このエセ魔術師がぁ!」
貴族女性とは思えない口汚い罵りの言葉と、魔術師の頬を張るパァンという音。リリアナの剣幕に押され、彼は泣き出しそうになりながら口を開く。
「その……彼女が目覚めるのは――」
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