ジョン宛の手紙を読んだのですか、旦那様
「誰だ、ジョンって奴は!!」
旦那様の怒声が、屋敷中に響き渡る。
マリア・フラナガン、26歳。三年目というのに、とうとう一度も同衾することなく迎えた結婚記念日のことでございました。
「ああもう、なんて間が悪いのかしら」
「お嬢様があんなことをするからですよ」
アンが呆れたように口を尖らせる。私が書いていた時は一緒になって笑っていたくせに。
今までずっと帰って来なかったのに、どうして今日に限って。
「ねぇ、旦那様の元へ行かなければならないと思う?」
「もちろんでございます、マリア様」
「とっても憂鬱なのだけれど」
「仕方のないことでございます、マリア様」
現実から逃げようと部屋を見渡せば、まるで来たばかりの時のように殺風景。ここまでやったのだもの。少し予定は狂ったけれど、腹を括るしかないわね。
「はぁ……。トランクを一緒に持ってきてちょうだい」
渋々腰を上げて、怒声の発生源のいる執務室へ向かったのだった。
*
「マリア、お前に縁談がきた」
四年前のある日、お父様にそう告げられた。
学園を卒業した直後、隣国との戦争が始まったことで、縁談とは無縁の生活を送っていた最中だった。
「相手はフラナガン伯爵だ。お前より三つ年上の陸軍中尉。我が家と同じ位とはいえ、いい縁談だ」
「はい」
「……きっと、もうすぐ戦争も終わる。顔合わせくらいできるとは思うが……婚姻までに必要なことは済ませておきなさい」
執務室を出てため息をついた。
まったく実感が湧かなかった。今まで婚約者もいなければ恋もしたことのない私が、ろくに顔も合わせたことのない殿方の妻になるなんて、考えつきもしなかった。
伯爵位はお兄様が継ぎ、私は家のためにどこかに嫁ぐ。これは決められていたこと。
けれど、同じ位に嫁ぐだなんて。まさか、それが美麗なのに浮いた話もなく、男性が好みなのではと噂されているフラナガン伯爵だなんて。
「私、やっていけるかしら」
対して私は地味な田舎娘。三つ編みがしめ縄のような、ただ黒いだけの髪に、ごくありふれた青色の目。伯爵のように雪のような白髪と紫水のような瞳なんて持ち合わせていない。
加えてドレスは六年前に流行したもの、体つきは貧相。どう考えても顔合わせの時点でがっかりされてしまう。
なんて考えていたのに、結局戦争は長引いてお顔合わせもできず、帰ってこれるとのことで予定した結婚式も新郎不在で行った。
当たり前のように初夜なんてなく、紙切れ一枚だけの妻が伯爵家を取り仕切るなんて気まずい状況が続いた。
「……ただいま帰った」
結婚して一年目の記念日を目前として、旦那様がようやくお帰りになった。初めて顔を合わせて、ああ噂通りの美しい方だわ……と少し造形美に気圧されつつ、ごく普通に
「おかえりなさいませ。貴方様の妻となりました、マリアと申します。これからよろしくお願いします」
とカーテシーをしつつ申し上げただけだった。
けれど何が気に触れてしまったのか、旦那様は目を逸らした後、何も言わずに執務室へ向かわれてしまった。
「お、お嬢様は昔旦那様となにか揉め事でも起こされたのですか?」
なんて、実家から連れてきた唯一のメイドのアンに言われてしまうほどだった。
「……またしばらく留守にする」
そしてそれ以来一切顔を合わせることなく、数日後には旦那様はまた戦地へ赴かれてしまわれて。食事も寝室も全て別な徹底ぶりに驚いた。こうして、式のみならず、一年目の結婚記念日も私一人だった。
……ちょうどその頃だったかもしれない。親愛なるジョンへの手紙が囁かれるようになったのは。けれど、私にはまだ関係なかった。
「……なにか不便はなかったか」
次に帰ってきたのは二年目の結婚記念日が過ぎてからだった。旦那様は着々と軍の中でも地位を上げていらっしゃって、胸元には勲章が増えていた。
そんなお方に、「貴方がいらっしゃらないのが不便でございました」なんて言えるわけもなく。
「特にはございません。ゆっくり休まれてください」
目も合わせてくださらない旦那様にお伝えできることなんてこのくらいしかなかった。
旦那元気で留守がいい、というのはよく聞く話で。私には同居する義両親もいなかったのもあって。こんなことで悩むなんて贅沢よね、という考えもあった。それに、長きに渡った戦争がそろそろ終わる、という噂をよく耳にした頃だった。
「……家のことは頼んだ」
「お任せください」
そうして旦那様はまた数日間家で過ごされた後、戦地へ赴かれた。もちろん私と顔なんて合わせていない。けれど、二回目ともなれば慣れたもので。私も経理に渡す書類にサインをしなければ、と旦那様の背中が見えなくなったところでさっさと仕事に戻った。
慣れ親しんだ日常の中で両親から手紙があった。この間旦那様が帰ってきたことを知ったらしく、子などを身籠っていたら実家を頼りなさい、とのことだった。
子なんて身籠るわけがない……と思ったところで初めて旦那様が帰ってきていた意味を理解した。戦死したら後継がいなくなってしまう。なのに、顔も合わせない。つまり私を凄く嫌っていたわけで。あの最初に帰ってきた時、あまりにも好みではなくて諦めたのだろう。終わってから新しい奥様を見つけるつもりで。いや、そもそも噂通り男性がお好きだったのかもしれないわ。
「……親愛なるジョンへの手紙、ね」
この時、私もジョンへの手紙を考え始めた。両親へは申し訳ないけれど、私も少し、我慢というのをやめてみたかった。
こうして私は身の回りの片付けを始めた。
*
「旦那様、マリアです。失礼いたします」
「マリア嬢! ジョンとは一体誰なんだ」
ノックして入れば見たこともないほど焦った様子の旦那様。結婚して三年、初めて見た真顔以外の表情がこれって少し複雑ね。
「私も知りません」
「は?」
「……旦那様は知らなかったのですね」
職場での話なのに、まさか知らないなんて。
「軍にいた間、親愛なるジョンへと書かれた手紙が山ほどありませんでしたか?」
「ジョンはよくある名前だ。あるに決まっている」
「そうですね。そしてその手紙のほとんどは離縁状です」
そう、これは長い戦争の間、恋人や旦那様を待てなくなった女性たちが、親愛なるジョンから始まる離縁状を送りつけたことからできた言葉。もう随分普及している上に、軍にいらっしゃったのだからご存じかと思いましたのに。
なんて説明すると旦那様は二、三度瞬きをした後、机に伏してしまった。案外身体表現をなさる方なのね。
「親愛なるジョンがきてしまった、と部下が漏らしていたのはそれか。惚気か何かかと思っていた」
「その部下の方はお気の毒ですね」
きっと我が家のように特殊事例ではなかったでしょうに。私は浮気なんてせずに、ただ離縁されるなら先にしてみたかっただけですし。
「このジョンとやらを殺しに行く前でよかった」
旦那様が瞳を鈍く光らせて不穏な空気でそう仰る。旦那様と私の温度差が全然違う。
戦争帰りだからかしら。凄く物騒だわ。ある意味早く帰ってきてくれて正解だったかもしれない。
「見ず知らずのジョンさんが助かってよかったです」
「ああ……待て、どこへ行く」
さて、もう話すことはないとくるりと背を向けた。
「元々、それを置いて出ていくつもりでしたので」
「……!? ま、待ってくれ。頼む」
そんなことを言われましても。女性か男性かは知りませんがどうぞ幸せになってください。私も実家に帰って両親に謝って、家庭教師にでもなりますから。
「初めてこんなに長くお話ししましたね。目が合ったのも、久々です」
なんてにっこりと笑った。これが最後と思えば優しくできる。元から意地悪をしたいわけでも、嫌っているわけでもないけれど。
そうして扉へ向かおうとした私の腕を旦那様が掴んだ。な、何ですか?
「式も結婚生活も、すべてやり直させてほしい」
え、今更? まあ、旦那様がよろしいなら、それでいいですけれど。私のこと、嫌いなのでは?
元から愛なんてものはなく、別に嫌なことをされたわけでもないですから、会話ができて、修復可能なら、両親のためにもう一度やり直した方がいいですけれど……。
「あ、愛して、いるんだ。釣書で一目惚れをしてしまって、その、今も、正直長時間は直視するのが辛い……美しくなりすぎて」
はい?
「だが、鍛錬する。今までのように遠くからではなく、近くから。そのために早く戦争を終わらせようとほぼ帰らず頑張ってきたんだ」
えっと……つまり、あの数日間遠くから私のことを見ていたんですか? だからフラナガン家の使用人の方々は離縁に消極的だったのですか?
あと家にほぼいなかったのはそういう……。
「だから、どうか、離縁しないでほしい」
手紙をもらって急いで帰ってきたらこんなことになっていて……って今日に帰ってきたのは使用人の方々のアシストのおかげってことに。
「……少し、待ってください。ジョンへの手紙を読んだのですか、旦那様」
手元にある手紙を指差す。もちろん封は開けてあるようだけれど。
「いや、まだ読んでいない。封筒に書かれた君の名前と、親愛なるジョンの時点で浮気かと疑っただけだ」
たった数年で氷の大尉とか呼ばれていた方が、鼻を赤くさせている……。よく見ると目も潤んでいる。涙とか存在していたのですね。
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親愛なるジョンへ
縁が薄かったことにより離別します。このあと再婚など思いのままに。
貴方の元妻、マリアより
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「はぁ……。どうやら、ハロルド様と縁が薄くなかったようです」
……ああ、トランクの中身を元に戻さなくては。
この人は、ジョンではなくハロルド様だったから。
「……縁はある。君の兄は旧友だ。釣書を見た時は妹だと気づけなかったが」
我が家で会ったことない気がしますが。
「君が本当に幼い頃、俺は君の領地で療養していて、一緒に遊んだこともある」
その頃は単に可愛い妹のように思っていただけだが……まさか一目惚れすることになるとは、と頬を赤らめてもじもじと仰るハロルド様。そう言われれば、いたようないなかったような。ちょっと慕っていたようないなかったような。
はぁ。お兄様も教えてくだされば良いものを。三年なんて、長かったすれ違いだわ。
今度は離縁をやめようとドアを開けたら、盗み聞きしていた使用人の方々がなだれのように倒れ込んできたのは、また別のお話。
こちらアメリカのフレーズの「Dear John letter」を勝手にこの世界に落とし込んだ形ですが、大体意味は一緒です。
読んで下さりありがとうございました。
ブクマ、評価などして頂けると作者喜びます。また、コメントなどお待ちしております。
ついでに最近連載を再開した作品です↓
『隣国の王太子様、ノラ悪役令嬢にご飯をあげないでください』
同じくかっこいいけどかっこよくない、隣国の王太子とそれを振り回す気ままなノラ令嬢のコメディちっくなお話です。読んでいただけると嬉しいです。下にスクロールして押すとページに飛びます。




