山田九郎と美少女
昼。桜が降りそそぐ中、スーツを着て公園のベンチに座り、ぼんやりとパンを頬張る二十代後半の男性。
彼の名前は山田九郎。この近隣の小さな出版社に勤めている、冴えない会社員である。人からの評価は常に平々凡々。印象に残らないとも言われることもある。
そんな彼は、大学時代には彼女がいたものの、就職を機に九郎が地方を出たことにより二人の仲は自然消滅した。それっきり九郎は女っけがまるでない生活を送っている。
時折会社の飲み会などに誘われるが、九郎は進んで人に話しかけるタイプでもなく、良いなと思う女性がいても、ただ手をこまねいているだけだ。煙草も酒もやらず、九郎は真面目だけが取り柄の人間なので、女性にはつまらないと見なされることも多い。同僚や上司から「山田は真面目だけど、ちょっと地味だよね」と陰口をたたかれることもあった。
働いて、寝て、また働いて……九郎は最近、同じことばかりくり返される自分の人生につまらなさを感じていた。食い扶持があり、健康な身体がある。それだけで十分すぎるほど幸せなのだが、それでもなお生活に潤いが欲しいと願ってしまうのは、贅沢なことだろうか。
九郎には熱中する趣味もなく、一人暮らしなのもあり、寂しさが身に染みるのかも知れない。家に帰ったときに「おかえり」と出迎えてくれる可愛い彼女がいたならば、きっと自分は幸せになれるのに。九郎はそう思っていた。軽くため息をつくと地面を向く。そんなもの、待っていたって降ってくるわけがないのに九郎はどうしても自分から行動を起こすことが出来なかった。学生時代からの友人らは次々と伴侶を見つけ、結婚していく。帰省するたびに両親からは結婚をせっつかれ、焦りを感じるが、自分のような男を相手にしてくれる女性がいるのだろうかと九郎は疑問に思う。
こうして様々なことに二の足を踏んでいる内に、自分は一人寂しく人生を終えていくのかも知れないな。九郎は近頃、あきらめに近い思いを抱くのだった。そのストレスのせいか、不眠にも悩まされており、目の下にはクマが出来ている。なにか、酷く陰気というかのんびりとした春の陽気には似つかわしくない思い詰めっぷりだ。
そうして、ふと顔を上げた時だった。平日の昼間なので、公園にいる人はまばらである。
そんな中、たった一人立ち尽くすその少女の姿を認めた瞬間、九郎の心臓は衝撃に貫かれた。
淡い紫のカーディガンを羽織っているその少女は、背中まである美しい黒髪がさらさらと流れる。透き通るような肌をしていて、整っているのにどこか親しみやすい顔。その瞳からは、今はぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。その光景はまるで映画のワンシーンのようで、九郎はなんて美しいのだろうかと感動に胸を震わせた。その姿に魅入られた九郎は指一本も動かすことが出来ず、惚けたようにベンチに座ったままその光景を眺めていた。何が悲しいのだろうか。九郎は少女のことを考える。九郎は少女の美しさに酷く惹かれ、目を離すことが出来なかった。
そんな時だった。少女の手に握られていた画用紙が、強い風にふかれ飛ばされる。少女は焦ったようにそちらを見る。運悪く、画用紙の飛んでいった先は噴水の中だった。少女は噴水の前まで駆けていく。ベンチに重たく腰を降ろしていた九郎だったが、少女に目が釘付けだったためかその足も自然と、少女の行く方に向かっていた。少女のもとへ行ってどうする?自問自答する九郎。そして、導き出した答えはこうだった。ずっと傍観者でいるのが嫌だった。だから九郎は動いた。
少女は噴水の前で、じれったそうに靴や靴下を脱ぎ、履いているジーンズをまくっていた。そんな少女の隣まで来た九郎は少女に声をかける。
「俺が取る」
「え?」
少女はぽかんとした顔をして、九郎を振り向いた。九郎は初めて少女に認識をされた。そして、少女に確認をとることもないまま、噴水の中へと着の身着のまま、画用紙に向かって突き進んでいく。春とはいえ、水はまだ冷たく、足元の感覚がなくなりそうだった。
「おにーさん、いいよ!あたしがとるから」
少女は焦ったように叫ぶと、噴水の中へと入っていく。公園にいる一般人が九郎たちに注目している。それでも九郎は良かった。少女を助けることが出来たなら。そうして、九郎は画用紙を両手で優しく持ち上げる。画用紙は水に浸され、ふにゃふにゃになっていた。そこには子供の絵で家族が描かれているのが分かる。真ん中にいる一番大きな絵が少女だろうか。九郎はその絵を眺めていた。ふと、その袖を引かれる。
「おにーさん」
そこに立っていたのはあの少女だった。少女はもう泣いてはいない。ただ、驚きをにじませて九郎を観察しているだけだ。
「はい」
「……えっと、ありがとね?」
九郎は困ったように、少女に画用紙を差し出した。少女は呆気に取られたように礼を言う。ひどくぎこちないやりとりだった。九郎は今更ながら、噴水に浸かったズボンや靴に気づき、多少後悔をした。二人の間を一陣の風が通り抜ける。
「「くしゅん!!」」
九郎と少女は同時にくしゃみをする。顔を見合わせる二人。すると、少女はおかしそうに笑い出す。
「とりあえず、風邪ひくといけないから出よっか?」
「そうだな」
九郎がぎこちなく笑い、頷くと少女と共に噴水から出てくる。すると少女は笑いながら九郎を向いた。
「はい、それじゃあ、靴脱ごっか?」
少女は九郎の靴と靴下を脱がせようとする。初対面の年上の人間に対して、ひどくさばけた態度だと九郎は少し面を食らう。九郎は年下の少女に世話を焼かれるこそばゆさから遠慮しようとしたのが、そういう訳にはいかないと少女に押し切られたのだった。そうして、少女はズボンの水を絞ったり、靴と靴下を木に干したり……くるくると九郎の世話を焼いた。そして、明るく笑うと九郎を見上げた。
「おにーさん。正義感強いんだね?」
「いや……そうでもないが」
「そうかなぁ。あ、でもいきなり来たからちょびっとびっくりした」
「それはすまなかったな」
「えー、謝ることじゃないよ。あはは」
そして、乾かすまでの間、ベンチに座り九郎たちは様々な話をした。
「おにーさん、このあたりで働いてるの?」
「ああ、小さい出版社だが」
「へぇ、じゃあ。おにーさん、記者なの?」
「いや、編集者だ」
「ふぅん、凄いね。あ、でも、記者の方がなんか格好いいかも」
「そうか。俺も昔は小説家を目指していたんだが、才能が無くて諦めたんだ。それでこの仕事についた」
「堅実なんだね。でも、そういうの悪くないと思うよ」
隣にいる少女から向けられる笑顔に触れ、九郎は日常の忙しさで乾いた心が少しずつ潤っていくのが分かった。少女はこの近郊の高校に通っており、今日は入院している家族の見舞いのために学校を休んだらしい。
そして、休憩時間の終わりが迫った頃、九郎はそれを告げた。少女は明るく笑うと名前を名乗る。
「あたしは黒鈴雪花。おにーさんの名前は?」
「俺は……山田九郎だ」
「そっか。山田さん。助けてくれてありがとうね」
そうして、九郎は雪花と別れた。その日の九郎は久しぶりに気持ちよく眠れた。