俺と山田九郎と美少女
夕日が沈んでいる中、九郎はベンチに座りながらどこか静かな気持ちで待っていた。昼間にいつも来る公園だが、夕暮れというだけで今は違う場所のように思えた。九郎の気持ちも、いつもの幸せなだけの心地とは違う。期待と不安が混ざった複雑な感情が胸を支配する。……自分の告白に、彼女はどんな返答を返してくるだろうか。あんな形の告白になってしまって、彼女は自分のことを卑怯な人間と思っただろう。それでも九郎は、どうしても希望にすがってしまうのだった。見下げ果てられたってかまわない。九郎は、彼女の出した答えを聞きたかった。
そこに影が伸びてくる。誰かが九郎の近くに立っている。どこか見覚えのあるシルエット。九郎がそちらを向くとそこに立っていたのは。
「くろっちゃん」
見慣れない制服姿の、雪花だった。紺色のブレザーのところどころに白いラインが入っている。薄い紫色のカーディガンを内側に着ていて、そこだけが見慣れたポイントだった。その姿を眺めていると雪花は女子高生なのだと、実感させられる。そして、そんな雪花も美しかった。九郎はベンチから立ち上がって、雪花に近づいていく。雪花はどこか物憂げな顔をして、九郎を見つめていた。九郎はその顔を見ながら、後悔していた。やはり自分は雪花に無理なことを強いてしまったのかと。オレンジ色の夕焼けが二人を包み込んでいる。雪花は九郎を見据えると言葉に詰まりながら、話す。告白は初めてではないが、九郎のような年上からされたことには驚いたこと。九郎からの好意は、とても嬉しかった。手術費のことは雪花の家族全員が心から感謝しているということ。黙ってその言葉を聞く九郎に、雪花はそうすることで気持ちを整理するように、一度言葉を区切ると言った。
「私もくろっちゃんのこと、好きだよ……本当に」
雪花の潤んだ瞳。九郎は手に汗を握りながら、尋ねる。
「それじゃあ……?」
「……あたしたち、付き合おっか?」
その言葉を聞いた瞬間、九郎は頭の芯から高揚と幸福感に包み込まれた。雪花が、自分を選んだのだ。他でもない九郎を。その間だけは、手術費のことも雪花の心情も忘れて嬉しさでいっぱいになった。
「黒鈴さん……ありがとう」
「…………」
雪花は曖昧に微笑むと喜びを隠しきれない九郎を見つめる。九郎は思った。今は思うところがあるかも知れないけど、きっと自分が雪花を幸せにして見せると。
「抱きしめてもいいか……?」
九郎は期待感を込めて尋ねる。雪花は小さく笑って言う。「そんなの、許可とる必要ないって」九郎は緊張しながら、壊れ物に触るように雪花を抱きしめた。さらさらとした髪からの柔らかなシャボンの香りが脳を刺激する。九郎は雪花を抱きしめると思った。この華奢な身体のどこからあれだけ頑張る力が出てくるのか。九郎はそんな雪花が自分の彼女になったことの幸福をじわじわと認識していた。下心があったとはいえ、雪花を想う心は本物だ。これからは自分が雪花を支えていこう。そう心に固く誓ったのだった。そして、この先の自分の人生を想い描く九郎。その想像する自身の隣にはいつも雪花がいる。雪花が側にいるのなら自分はどんな時でも頑張れるのだと確信していた。九郎は夢見心地で目を閉じた……そんな時だった。
「なぁにやってんだ?雪花」
年若い男の、からかうような声。その声を聞いた途端、九郎は一気に現実へと引き戻された。そして、声がした方……背後を振り返る。
「、しそっちゃん……」
雪花の呆然とした声が聞こえた。そこに立っていた緑色がかった黒髪をした少年は、ニッと笑った。九郎はその呟かれた名前でこの少年が雪花と同じ部活の……雪花が好意を抱いているかも知れない少年なのだと知る。少年……シソジロウは雪花の着るブレザーとデザインの似た制服を着て、雪花に気軽に話しかける。
「さっさと部活帰っちまうからさ、心配でついてきちまった。良い雰囲気だったけど、邪魔だったか?」
「……んー、ほんとだよね。今、すっごく良い感じだったんだけどな」
雪花はどこか冷酷な響きのする声でそういうと九郎の腕に抱きつく。九郎は雪花が自分から抱きついてきたことを内心喜びながら、シソジロウを警戒した。九郎は先ほどから、シソジロウから得体の知れない圧のようなものを感じていた。この少年はただ者ではないのか……?九郎は冷や汗をかきながら、シソジロウを観察した。そんな二人の友好的とは言い難い態度にさらされながらも、シソジロウは余裕を崩さずに笑っている。それはある意味ふてぶてしいとも感じられた。
シソジロウはまっすぐに雪花を見つめると勧告した。
「お前はうちのハーレム部の部員だ。お前はハーレム部員の一員として俺だけを好きでいなけりゃならない。それが他の男と密会……つまりは浮気だよな?雪花?」
「……そーだね、しそっちゃんの論理だとそうなるかもね」
「はぁ……お前に限って、浮気はないと思ってたんだがな」
シソジロウはくっくっと笑うと九郎を眺めた。その目はゾッとするほど冷たかった。その迫力に背筋に寒気が走った九郎は少したじろぐ。
「雪花、戻ってこい。今なら、その隣の男のことも目をつぶってやる」
「嫌」
雪花は小さく身体を震わせながら、言った。
「あたし、ハーレム部辞めるよ。しそっちゃんが今まで融通してくれてた学費の免除も、もうしてやんなくて良いから……あたしはあたしの力でなんとかする」
目を細めるシソジロウ。
「そりゃ、感心。だがどうやってなんとかするおつもりなんだ?」
「……勉強を死にものぐるいでやる。そんで、成績上げて奨学金が受けられないか学校にかけあってみる……」
「ふっ、そりゃ健全な努力だな……だが」
シソジロウは右手を前に突き出すと、なにかを握りつぶすような仕草をした。
「そんな健気な頑張りも、俺が手を回せば全部パァだ」
雪花は息を飲むと、悔しげに唇を噛んだ。このシソジロウという少年は、本当に雪花が優しいと見なした人物なのか。裏から手を回して雪花の邪魔をするなど、優しさや正々堂々とした精神にはほど遠い人物に思えた。そして、そんな悪漢に雪花の未来が潰されようとしている。九郎は今の状況を黙って見ているわけにはいかなかった。
「学費は、俺がなんとかする」
九郎が重々しい声を上げた。驚いたように、九郎を見る雪花。九郎はこの場の雰囲気に緊張しながら言った。
「だから、黒鈴さん。あんたは安心して学校に通ってくれ」
「くろっちゃん……」
そんなやりとりに笑い声がはさまってくる。シソジロウだった。シソジロウは九郎を眺めると肩をすくめた。
「雪花にずいぶんと入れ込んでるんだな?くろっちゃん。そりゃそうか。俺の女だもんな。魅力的に決まってる」
「……黒鈴さんは、俺と付き合うことになった。悪いが、彼女から手を引いて欲しい」
目の前のシソジロウが発する威圧感にやけに口が渇くのを感じながらなんとか言葉を紡ぐ九郎。
「それは出来ない相談だな。雪花は俺のハーレムの一員で、俺は雪花のことを大事に想っている。それをどこからともなく現れて、『雪花と付き合うからもう関わるな』なんておかしくないか?」
九郎は決意を込めて、シソジロウを見つめ返す。
「……これからは俺が黒鈴さんを守っていく。君じゃなくて……俺が」
シソジロウは愉快そうに唇の端を上げる。
「へぇ、そりゃ凄い。金で雪花を脅しといてナイト気取りか。笑えるな」
「!!!」
九郎は驚きに目を見開いた。何故そのことをシソジロウが知っている。シソジロウはそんな九郎の思惑を見抜いたようにつまらなそうに言う。
「いやぁ、この間、『たまたま』この公園で昼寝してたら、なんか雪花の弟の手術費がどうのこうのって話が耳に入ってな」
「……あたしのこと、つけてたんだ」
「『たまたま』だよ『たまたま』」
とぼけるシソジロウに、九郎は苛立ちをつのらせると睨み付けた。金で雪花を脅した。そんな言われ方をして怒らないほど、九郎は冷静な人間ではなかった。それが、雪花が自分と付き合うことを選んだ大きな一因だと自覚していただけに。シソジロウはその視線を受け止めると楽しげに笑う。そして、雪花を見つめた。
「なぁ、雪花どうして俺を頼らなかった?こんなちんけな男より、俺の方がよっぽどお前を難なく助けられたぞ」
「……また、口先ばっかり言って」
「俺は美少女のためなら、なんだってするさ。雪花、俺を信じろよ」
雪花は一旦うつむくも、顔を上げる。強い意志をたたえた目をしてシソジロウを睨み付けた。
「しそっちゃんのことは好き。だけど、それだけだよ。しそっちゃんはあたしがいなくても幸せになれるけど、冬は違う」
そういうと雪花は九郎の手を強く握りしめた。雪花の正直な言葉に、九郎の胸に複雑な気持ちが渦巻く。
「あたしは冬を助けてくれるくろっちゃんと一緒にいる。たとえ高校を辞めることになっても。……それが、一番いい選択肢だって思うから」
繋いだ手から、雪花の震えが感じ取れる。雪花は決断したのだ。そうして、最終的には雪花は自分を選んだのだと九郎は安堵した。本人の口からここまでの決意を聞かされれば、諦めもつくだろうと思う。
だが、目の前の少年の顔から余裕の笑みは消えることはなかった。
「ふぅん、お前の意思は固いみたいだな。雪花」
「………………」
「じゃあ、くろっちゃんを説得するしかなさそうだな?」
説得?九郎は眉をひそめた。九郎が雪花を手放すことなどあり得ないというのに、この少年はなにを言っているのか。シソジロウはぱしんと手のひらと拳をあわせる。
「とはいえ、お行儀良く話し合いってのは柄じゃない。ってなわけで」
九郎を睨み付けるシソジロウ。それは笑みの消えた真剣な表情だった。
「決闘しようぜ。くろっちゃん?景品は……雪花だ」
その言葉にシソジロウは本気だとはいえ、九郎は呆れた。決闘をしろと言われたところで、そんなこと受け入れられるわけがない。九郎がそう返すと、シソジロウは胸ポケットから何かを取り出した。それは写真のようだった。九郎は嫌な予感がして、写真から目が離せなかった。ひらひらと写真をふるシソジロウ。
「よくあるよな。くたびれた会社員が未成年者といちゃいちゃして捕まったって話」
目を細めると九郎の足下に向かってそれを投げるシソジロウ。そこに写っていたのは、抱き合う九郎と雪花だった。冷や汗をかく九郎にシソジロウは楽しげに声をかける。
「次捕まるのはお前かもな?」
九郎は写真を握りつぶすと地を這うような声で言った。
「まだ、あるのか」
ピリピリとする九郎にシソジロウはのんびりとした声で後一枚あると答える。
「ポラロイドカメラだから、何枚も撮れなくてな。明日にはお前の職場に届けといてやるよ」
「……脅すつもりか」
「脅し?いいや、違うね。交渉だ。くろっちゃんが雪花を賭けて俺と決闘するっていうなら、これは破り捨ててやっていい」
「………………」
この少年の言うとおりに決闘をしなければならないのか。手に力がこもる。決闘など馬鹿馬鹿しい。だが、受けなければ写真は会社に届けられ、九郎は社会的に大きなダメージを負ってしまうだろう。そして、もしも決闘に勝ったとしてもシソジロウが大人しく雪花を諦める保証もなかった。
雪花は切羽詰まった表情で九郎を見つめていたが、次第に諦めたような顔になると、呟いた。
「くろっちゃん、ごめんね。もう、あたしたちのことは気にしなくて良いから……」
雪花は、九郎の生活を思って身を引こうとしている。九郎は思わず、その手を掴んでいた。「大丈夫だ」「くろっちゃん……」もう、選ぶ道は一つしかないのだと九郎は思った。たとえ、それが間違いだったとしても男として、引くことは出来ない。九郎は上着を脱ぐと、雪花にそれを預ける。
「持っていてくれ」
「!」
雪花は泣きそうな顔で九郎を見つめていた。そこにどういった感情が含まれているかは、うかがい知れない。だが、それを知る必要はないと九郎は目をそらした。九郎は雪花に背を向けると、シソジロウに向かって歩き出した。九郎はおそらく今の自分は酷く真剣な顔をしているだろうな、と思った。そして、九郎はシソジロウと立ち並ぶ。シソジロウは成長期の少年らしく、やや小柄な体型をしていた。その点、九郎は平均並みには身長はある。普通に考えて殴り合いとなれば、九郎の有利だろう。
九郎は、息を吐くと子供の頃習わされていた空手の型をとった。今すぐ、戦いとなってもいいように。
「あ、ちょっと待った」
シソジロウは手のひらを見せると九郎を止めた。鼻白む九郎。こんな時になんだと思っていると、シソジロウは草むらに向かって歩いて行った。あれだけけしかけておいて、このタイミングでトイレか。九郎は力が抜けていく感じがしたが、なんとかこらえた。数十秒の間があり、がさがさと音がする。九郎は、やっと用が済んだのかとシソジロウが入っていった草むらを向いたのだが……。
そこから出てきたのは、シソジロウだけではなかった。腹の出た、ワイシャツとネクタイ姿のいかにも不摂生していますといった風情の中年男性。それに、もう一人。前者とは正反対にやせ細り、折れてしまいそうな身体をした作業着を身にまとった老人だった。そして、老人は非常に重たげに金属バットを持っている。シソジロウは二人を並べると、こともなげに言う。
「この中年おやじがうちの家の運転手で、こっちのじいさんがうちの学校の用務員だ。こいつら、俺の助っ人だから」
九郎はめまいがした。愛する雪花を賭けた決闘に手下の力を借りるとは何事だ。この少年にプライドというものはあるのか。九郎の脳内に様々なツッコミが駆け巡った。雪花は彼のことを優しいと評していたが、大間違いであると九郎は思う。どちらかといえば間違いなくゲスだろう。
「卑怯だよ!しそっちゃん!!」
雪花が走って駆け寄ってくる。シソジロウが目で合図すると、運転手は雪花を受け止めた。「離してよっ!」シソジロウはにやりと笑うと、九郎に言った。
「さて、始めようか。決闘ってやつをな」
シソジロウがそういうやいなや、用務員は九郎に向かっていき、金属バットを振り上げる……が。「あいたたた……」腰痛で腰をおさえ、地面にうずくまったのだった。九郎は呆然とその様を見ていた。シソジロウは仕方なさげに側に行くと金属バットを拾いながら、用務員をいたわる。「大丈夫か?特別手当は出さないからな」用務員はがっくりとうなだれた。この茶番のようなやりとりに気を抜きかけた九郎。そんな時だった。
「くろっちゃん!!危ない!!」
雪花の声に我にかえる九郎。だが、遅かった。目の前には金属バットを振り上げるシソジロウがいた。ガツンと左肩に鈍い衝撃が走る。あまりの痛みに九郎は思わず身体を曲げていた。そこに再びの追撃。今度は左足だった。痛みのあまり、九郎はうめき声を上げた。
「くろっちゃん!!!」
雪花は運転手に止められながら、必死に九郎に向かって手を伸ばす。
酷い痛みだった。もう戦えないのではないかと言うほどに。だが、自分に向けられる雪花の泣きそうな声。それが九郎の折れかけた精神をふるい立たせた。
九郎は痛む身体を引きずって、なんとかシソジロウから距離をとると、息を整える。シソジロウは金属バットを手に持って、楽しげに笑っていた。
「鬼ごっこか?くろっちゃん」
九郎は昔習った空手の型を思い出しながら、確信する。
(大丈夫だ。いける)
九郎は駆け出すとシソジロウとの距離を一気につめた。シソジロウはやや驚いたように目を見開いている。九郎の身体は流れるように動く。そうして、九郎がくりだしたのは……後ろ回し蹴りだった。シソジロウの身体は衝撃に吹っ飛んでいく。
「ぐっ……!!」
シソジロウはそううめいたきり、地面に倒れ込んだ。九郎は肩で息をしながら、シソジロウに近寄っていくとその胸ポケットに手を入れる。そこには写真があった。九郎は身体中からアドレナリンがみなぎってくるのを感じていた。自分は勝った。そして、雪花との生活を手に入れたのだ。九郎は高揚感で浮かれ上がった頭で雪花のもとへと歩いて行く。その顔は満面の笑みだった。運転手の手から解放された雪花はぼんやりと九郎を見つめていた。九郎はそんな雪花におかまいなしに声をかける。
「もう駄目かと思ったが、黒鈴さんのおかげで勝てたよ。ありがとう」
「……そう、良かったね。……」
「これで、シソジロウくんが約束を守ってくれるといいんだが」
「…………」
ようやく雪花の静けさに気付いた九郎。不思議そうに声をかける。
「……黒鈴さん?」
雪花は目を伏せると、悲しげに呟いた。
「ごめん……くろっちゃん」
そういうなり九郎の隣を通り過ぎていく雪花。九郎は髪がたなびいていくのをただ呆然と見つめていた。すると、そんな九郎の肩をぽんと叩く人物が一人。運転手だった。運転手はヤニ臭い口を九郎に近づけると言った。
「残念だな。あんた、振られたんだよ」
そう気の毒そうに言う運転手になにを馬鹿なとまばたきをする九郎。そんなわけがないと考えながら、後ろを振り返った時だった。
そこでは、雪花が泣いていた。そして、その腕の中にはシソジロウがいる。シソジロウが目を開けると雪花の表情は泣き笑いに変わった。そんな光景を目の当たりにした九郎には衝撃が走る。
(なんだ……黒鈴さんは心の底ではあいつが良かったのか)
九郎を虚無感が支配する。もう何もかもどうでもいいといった感覚。それは、シソジロウと雪花の様子を一秒、また一秒と眺めるたびに強くなっていった。
雪花の親しげな笑顔。少しお節介焼きなところも、こちらを翻弄するところも膨れる顔も好きだった。そして、それらはすべて、失われてしまった。
雪花は、九郎のものにはならないのだ。
(もう、これ以上見ていられない)
九郎は拳を握りしめるときびすを返そうとした。
「おい、待てよ」
そこには雪花に支えられたシソジロウが立っていた。雪花は目を伏せて、九郎と顔をあわせようとしない。九郎はそのことでなおのこと、悲しくなった。
九郎は一刻も早くこの場を去りたいという気持ちに支配されていた。そんな九郎にシソジロウは言葉を放る。
「手術費、ちゃんと払えよ?」
何かと思えば、金の催促か。九郎は投げやりな気分だった。この場の全てが疎ましい。だが……。その時、九郎は気がついた。雪花の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれていることに。九郎は不思議と、その涙が九郎との別れを悲しんで流しているような、そんな気がした。
(そうだ……黒鈴さんの幸せを考えなくては)
九郎は、振られた分際でそんなことを感じた自分は底なしのお人好しだと思った。けれど、九郎は思ってしまうのだった。雪花は自分に対して、友情だろうとなんであろうと、親しくしてくれた。九郎は幾度となく、雪花の存在に心救われたのだ。そして、九郎は雪花には笑っていて欲しかった。たとえもう二度と会えなくなるとしても。
「ああ、分かっている」
気付けば、九郎はそう返事をしていた。
そうして、雪花たちに背中を向ける九郎。
胸は非常に痛むが、どこかすがすがしい気分だった。
◆◆◆
◆◆◆
秋も深まった頃。ハーレム部の部室にはくりくりとした目のどこか雪花に似た少年がソファーに座っていた。少年は炉々子を指さすとこう言った。
「なんで高校に小学生がいるんだよ?」
頬を膨らませてむくれる炉々子。
「わたしは小学生じゃないよ!」
「嘘だぁ!絶対、子供だって」
「子供じゃないよ!」
ゆらぎは苦笑しながら、少年にたずねる。その手には一切れのアップルパイの乗った皿が握られていた。
「冬くん。アップルパイは好きですか?」
「うん!好き!好き!」
「はい、どうぞ」
冬は大喜びでアップルパイに食らいつく。港は、そんな冬の様子を眺めながら、目を細めていた。一方の天は小説を読みながら、どこか不機嫌そうだ。
「冬くん、元気になって良かったですね」
「元気過ぎるわ。それに生意気な口は聞くし、誰にでも物怖じしない図々しいところは姉に似たのかしらね」
「あはは。ごめんね?てっちゃん」
雪花は謝りながらも楽しげに笑っている。そこにやってきたのはシソジロウだった。手には雑誌が握られている。その雑誌の特集は、闘病する子供たちで写真には子供たちに話しかける笑顔の九郎の姿が載っていた。シソジロウは雑誌をテーブルの上に投げると、雪花に声をかけた。
「なぁ、雪花?お前、俺のこと好きか?」
「えーなに、急に」
「いや、気になってな。で、どうなんだ。どのくらい好きなんだ?」
雪花は後ろを向くと呟いた。
「言ってあげない」
「言えよ。気になるだろ」
「んー。そうだなぁ」
雪花ははにかむと言う。それは酷く幸せそうな顔だった。
「悲しい時も、しそっちゃんのこと考えるだけで涙が飛んでっちゃうくらいには好きだよ?」
「そうか」
そんな時、シソジロウの胸に小さな衝撃が。シソジロウがそちらを向くと、そこには冬がむくれた表情をして立っていた。
「ねーちゃんは、おれのだぞ!」
そういうと冬は雪花に抱きつく。子供の可愛らしい嫉妬心だ。だが、シソジロウは真剣な表情になると冬に言い放った。
「悪いが、雪花は俺のもんだからな」
「子供相手に大人げないわね」
そのあまりの本気度に、雪花に抱きつきおびえる冬。威圧するシソジロウだったが、ふと表情をゆるめると冬を眺める。
「とはいえ、お前は雪花に似てなかなかの美少女っぷりだな。口は生意気だが、そこもまたマニアにはたまらないだろう。どうだ。スカート、履いてみないか?」
雪花はぞっとするように冷たい声を出すと言った。
「……しそっちゃん、冬に手を出したら承知しないよ?」
ゆらぎと港は不思議そうに話し合う。
「それはどちらの意味でしょうか」
「両方じゃないでしょうか」
シソジロウは、雪花の言葉に顔をほころばせると雪花と冬に近づく。
「フッ、それは聞けないな」
そういうと、シソジロウは二人を抱きしめた。柔らかな二人の体温。シソジロウは腕の中にある幸福を噛みしめたのだった。
……そんな中、部室内の空気は高ぶっていた。
「シソジロウくんの抱擁……」
「ボクも抱きしめられたいです……」
「……別に、私の胸は空いてなくもないけど?」
「シソジロウ、ギュッてしてー!!」
シソジロウはそんな声を聞きながら、フッと笑うと呟いた。
「ふー、やれやれだぜ」




