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八月。漫画雑誌の編集者、湯本七絵は頭を抱えていた。何も思い悩んでいるわけではない。それは彼女が考えに集中する時のクセであった。
今彼女の目の前には漫画の原稿がある。原稿用紙でもなんでもなく、ただのコピー用紙に印刷された数十ページからなる読み切り、短編の漫画。ペン入れすらされていない。鉛筆下絵のコピー原稿。「なんだこれ。ふざけてるのか」とも思ったが、ちらりと見たその絵のあまりのうまさに「とりあえず読むだけ読んでみるか」と思いページをめくった。そこからは、止まらなかった。
すごい、すごすぎる。面白すぎる。あまりに完璧な漫画。完璧としか言いようがない。鉛筆だろうと抜群に絵がうまい。ひたすらに引き込まれる。心臓を鷲掴みにされる。心が激しく揺り動かされる。読み終えて顔を上げた時には、放心状態だった。
何者か。なんだこいつは。そう思い作者の情報を見る。ペンネームは「これが描けたら死んでもいい」。ふざけてるのか。いや、でも読めばわかるがまんざらふざけているわけでもない。読んでしまえば、嫌でもこのペンネームの意味がわかる。ある意味で作品のタイトルですらある。「これが描けたら死んでもいい」。そう思いながら描いたとしか思えない熱量。しかも見れば年齢はまだ十六。高校一年生。しかも女子。本名は両原長。
なんなんだ、この人間は。
紙には規定にはないが申し訳程度に「言い訳」が書かれている。「私は両原長本人ではなく原稿の管理、応募を頼まれている友人ですが、一応記載しておきます。作者は他に描くものが山ほどあって時間がないため、申し訳ありませんがペン入れせず下絵の状態のままで送らせていただきます。規定違反で賞の対象にはならないでしょうが、本人の許可もとりぜひ読んで頂きたいと思い送らせていただきました」。
描くものが多すぎてペン入れしている時間もない。あまりに潔い「言い訳」。しかしそれもわかる気がした。湯本にはその「これが描けたら死んでもいい」というペンネームに見覚えがある気がした。試しにネットで検索すると、出る。ネットにも漫画を上げている。それは最近編集部でも、というより「漫画クラスタ」の間でも話題になっているウェブ漫画の一つであった。異常な更新速度。異常な熱量。そして鉛筆での下絵。なにより、あまりにも面白すぎる漫画。商業化待ったなしなどとも言われている。いつになるか、どこの出版社がとるかの問題。当然そこに書かれたペンネームは、「これが描けたら死んでもいい」。
湯本もそれは読んでいた。すぐにでも商業化できる漫画だと思った。間違いなく売れるものだと思った。その作者が、これを描いてよこした。正確には友人らしいが、ともかく連載している長編だけではなく、文句なしの短編も描ける。なにより、絶対に賞に値する作品。とはいえ、この下絵の作品をどう扱えばいいのか……何にしても絶対、今すぐにでもうちで唾をつけとかなければ。それだけははっきりと確信できた。
「編集長、ちょっとお時間いいですか?」
「なに?」
「何も言わずこれ読んでください。絶対に時間の無駄にならないことは私が保証します。冗談抜きで首かけて断言できるものです」
湯本はそう言って「これが描けたら死んでもいい」の原稿を机の上に置く。編集長は黙ってそれを手に取り、ペラペラとめくり始めた。
「――これなんだ?」
「月間賞に送られてきたのです。そのままです」
「鉛筆下絵でしかもコピー原稿かよ。十六歳? マジかよ。しかも女じゃんか。……言い訳まで書いてある意味潔いな」
「どう思われました?」
「聞く意味ないだろ。思うもないしな。別格だろこれ」
「ですよね」
「ああ。けどこのままじゃな。少なくとも賞はやれないだろさすがに。内容は文句ないよ。絵もな。でもペン入れもしてねえのはなあ。ネーム賞とかなら別だけど。そっち送ってもいいけどさ。こいつペン入れはできるの? できるのにしてないだけ?」
「わかりません。確認してもいいですか?」
「お前が取ったんだもんね原稿。これもなにかの縁だろ。女相手なら同じ女の方がいいかもな。まあこの歳でこんだけ描けてるならたとえ今ペン入れできなくてもすぐできるようになるだろうし、どっちに転んだって原作で仕事できるし。何しても取りに行けよ」
「はい。じゃあ連絡取ります」
湯本はそう言い、自分の机に足早に戻っていった。
*
夏休みのその日、手代木は話を聞いて豊葦の家にやってきていた。両原の漫画を読むためにすでに数度訪れていた彼女の部屋であったが、そこに両原がいるのを見るのは初めてだった。両原は豊葦の部屋のローテーブルで黙々と漫画を描いている。夏休みだろうと人の部屋だろうと、机や椅子が変わろうと彼女には何の関係もない。どこであろうと描き続けるだけ。なんら問題なく描き続けられる。
「よう両原」
と声をかける手代木。返ってくるのは「うん」という簡素な言葉だけ。顔をあげることもない。しかしそれにももう慣れている。この四ヶ月で十分に「そういうもの」と認識できていた。
「両原は毎日豊葦んちで漫画描いてんの?」
「基本はね。移動時間もったいないけどわざわざ原稿取りに来てもらうのも悪いし。冷房考えても一緒の方がいいから」
「それはな。でも電気代は豊葦んち持ちじゃん」
「さすがにちょっとは払ってる」
「律儀だな……」
と思いつつ、手代木は豊葦の方を見る。豊葦はいつものように自室のパソコンの前に座っている。時計を見る。聞いていた時間まではあと少し。自分は関係ないはずなのに心臓の高鳴りは抑えられない。緊張を収めるため、というより元来の目的通り両原が描いた漫画を読みながらその時を待つ。
約束の時刻。電話が鳴る。豊葦が電話に出て何やら会話をする。そのしばらく後、パソコン画面に相手の顔が映る。「web会議」が始まった。
「こんにちはーはじめまして豊芦と申しますー」
と豊芦がカメラ越しに画面の向こうの人物に挨拶をする。
「初めまして。『週刊少年チャンプ』編集部の湯本です」
と相手が名乗る。その言葉を聞いて、画面外の手代木の心臓が大きく跳ねる。
――きた。本当だ。本当にあの『チャンプ』の編集者だ……!
マジだった。マジだったのか。そりゃ別に疑ってはいなかったけど、ほんとにあの『チャンプ』から連絡が来るなんて。あの『チャンプ』に見つけられるなんて。
両原、お前はほんとにどこまで行くつもりなんだ。
「メールでお話した通り長ちゃん、両原さんって言ったほうがいいんですかね。それとも『これが描けたら死んでもいい』さんとかでしょうか?」
「いえ、それはさすがに言いにくいですし長いのでお名前でいいです。こちらも両原さんとお呼びするので」
「はい。その両原さんのお手伝い、一応アシスタントとかマネージャーみたいな感じですけど、そちらをやらせてもらっている豊葦です。今日も両原さんに代わってお話させてもらいます。ちゃんと両原さんもこちらにいますんで。長ちゃん、挨拶くらいは」
豊葦はそう言って振り返る。漫画を描き続けていた両原は一瞬逡巡し、手を止め立ち上がりパソコンの前に向かう。
「カメラこれ?」
「そう。左上にどう映ってるか見えるから」
「これか……初めまして。両原です」
両原はそう言いペコリと頭を下げる。それは湯本が初めて見る「これが描けたら死んでもいい」の「ご尊顔」であった。
「こちらこそ初めまして湯本です」
「よろしくお願いします。すみませんけど、描かなきゃいけないのでこれで失礼します。会話は全部聞いてますし聞こえてますし必要なところは返事するので」
両腹はそれだけ言ってまた机に戻る。ある意味礼儀もマナーもない。けれども両原にはそんなことはどうでもいい。漫画を描く以外のすべては、どうでもいい。そしてそれで成り立つ。その圧倒的な才能によって、周りが勝手に動いてくれる。何でもしてくれる。無礼など一切感情に入らないだけの才能がそこにはあった。
「わかりました。こちらこそよろしくお願いします」
湯本は画面外の両原に向かってそう返事をする。初めて見た「これが描けたら死んでもいい」の顔は、思いのほか普通だった。年相応の、普通の女子高校生。あえていうなら少し暗い印象は受ける。痩せていて、あの漫画から受けるような熱量は感じられない。けれども漫画家なんて大抵はそういうものだ。それとは別に聡明さのようなものも見て取れる。何にせよ、漫画家は顔ではない。顔などどうでもいい、顔からわかることなど、ほとんどないに等しかった。
「あ、それとお話させて頂く前に一つだけなんですけど、画面には映ってないですけど今日はもう一人だけこれ聞いてる人がいますので」
「はい? 保護者の方とかですか?」
「いえ、同じ文芸部、文芸部っていっても漫画研究会みたいなのと合併してる部なんですけど、そちらの仲間で漫画描いてる友人ですね。後学のためということで。彼も漫画家目指してますから」
「そうですか……一応、念のためですけど、くれぐれもここでの話は口外しないようにお願いします」
「あ、はい。もちろんです!」
と手代木はその場から声を張り上げ返事をする。
「それじゃあ早速ですけど、まず送っていただいた漫画やウェブに掲載されている漫画の感想はこの前メールで送ったとおりです。賞に関しても、やはり送っていただいたあの賞ではあの下絵だけの状態では厳しそうですが、それでもあの内容であれば文句のつけようはないですし何より無理やりにでも全員に読ませたいので、とりあえず選考には通しました。さすがに受賞は厳しいでしょうけど、でももしかすると一番下の賞程度であれば特例で入る可能性もあります」
「わかりました。そちらはお任せします。こちらが下絵で送ったのが悪いので」
「いえ。それでまあ、ネームだけの賞であれば間違いなく受賞すると思います。けれども一応確認ですけど、両原さん本人は『原作者』としては漫画を描くつもりはないんですよね?」
「作画しないってことですよね?」
と作業したまま両原が返す。
「そうです」
「じゃあそれはないですね。自分で描かないと意味ないので」
「そうですよね……あの、ちなみにですけど、今普通にご返答されてましたけどその間もずっと作業は続けたままですか?」
「そうです。話しながら描けるんでこちらのことは気にしないでください。全部聞いてるんで」
「そうですか……それでまあ、その点と言いますか、ペン入れの有無、というよりできるか否かの可否の部分についての懸念は事前にお伝えした通りでして、その確認にペン入れした原稿もデータで送っていただいて読ませてもらいました。まずその感想からですが、完璧だと思います。文句のつけようがありません。あれはすべてアナログですよね?」
「そうですね」
「アナログである以上できれば一応生の原稿も見せていただきたいので、可能であれば後日送ってください。なんの問題もないとは思いますけど、念のための確認として」
「わかりました。では後日送らせていただきます」
「はい。それであのペン入れしてある漫画はいつ頃描かれたものですか?」
「はっきり覚えてないですけど多分中学の時です。中三よりは以前だと思います」
と両原が答える。
「その時点であの絵ですか……最近描かれた、ペン入れされた原稿はないんですよね」
「ないですね。時間かかるのわかったんでやらなくなったんで」
「そうですか……とりあえずできるということは、技術も能力もあるということはわかりました。ただ改めて確認ですけど、どうしてペン入れされないんですか?」
「時間がないからです。もったいないんで。別に入れなくても漫画は描けますし形になるんで」
「そうですか……時間がないというのは、高校生で忙しいからということでしょうか」
「というより単純に描くものが多すぎるからですね。いちいちペン入れしてたら全部描けなくなるんで。間に合わないかもしれませんから」
「間に合わないといいますと」
「単純に全部描き終えるのに間に合うかどうかですね。描き切る前に終わるかもしれないんで」
終わる。それは、どういうことだろうか。おそらくは「死」なのだが、高校生の彼女が死を、少なくとも寿命といえる年齢に達するまではあと六〇年はある。六〇年あっても間に合わないだけの量の漫画が、アイデアが、すでにその中にあるということなのだろうか。
「とにかく急がなきゃいけないので急いでるだけです。ペン入れは急ぐ邪魔になるんで」
「そうですか……デジタルにしてそのへんの時間を短縮するというのは」
「デジタルだとどこでも描けるわけじゃないですからね。アナログというか紙と鉛筆ならそれさえあればいつでもどこでも描けるんで」
ほんとに、この子はそこまでして急いでいるのか。そこまでして、どこでもいつでも描けるようにしているのか。そこまで、いつでもどこでも描けないとダメなのか。
疑問。疑念。それはずっとついて回っている。最初からあったもの。それは話すごとに、やり取りを重ねるごとに、知るごとに強まっていく。そもそも最初からあった疑問。「これが描けたら死んでもいい」という、あまりにも強烈な宣言にしてメッセージたるペンネーム。
「――差し支えなければ、聞かせてほしいんだけど。両原さんは、なんでそんなに急いでるの?」
「それが当たり前だからですね。急がないほうがおかしいだけで」
「……それはどういうこと?」
「人は死ぬじゃないですか。当たり前ですけど。誰だって今日明日死ぬかもしれないじゃないですか。なんにもなくたって車に轢かれたり人に殺されたり隕石が落ちてきたり。明日死ぬかもしれないという可能性は万人にとって一〇〇%じゃないですか。だったら急ぐ一択ですよね普通。間に合わなくなるかもしれないんですし。これが最後かもしれないんですから」
その、あまりにも極端な生き急ぎ。とはいえそこで語られている言葉はすべて真実。あまりにも真実であった。しかし人はそんなふうには生きられない。そんなことを常に考えられながらでは日々を生きられない。耐えられない。明日死ぬなら、今の全ては無意味かもしれないのだから。
何がこの子をそうさせるのか。何があったら、このたった十六年しか生きていない子供がここまで狂気に近い焦燥に駆られ行き急ぐのか。何があれば、こんな創作にすべてを捧げる人間ができあがるのか。それはある意味すべての「創作者」の理想。余計な一切が排除され、ただひたすらに創作のみに打ち込む姿。それだけ。とはいえそれはあまりに狂気に近かったし、それでは人は日々を生活を生きられない。
何故、どうして、こうなるのか。
「――これも差し支えなければ、ほんとに言えたらでいいんだけど、どうしてそこまで生き急ぐのかな。生き急ぐっていうのは的確じゃないのかもしれないけど、私の感覚では生き急いでるようにしか見えなくて。何があったら、どうしたら、そこまで本当に明日死ぬかもしれないって、信じて、思い込んで、生き急いで漫画を描けるのか、私には全然わからなくて」
「信じるも何も、私にはそれがただの事実なので」
と両原は返す。
「大前提として私が死ぬのは事実です。それは絶対ですから。ただそれとは別に、私は多分、高確率で早く死にますしそれ以前に体が動かなくなるので」
「え?」
「そういう病気です。遺伝です。別にまだ症状は何も出てませんけど、でも遺伝なんで高確率で自分もそうなります。徐々に体が動かなくなってく病気です。当然腕も動かなくなるんで描けなくなります。それはいつ来るかわからないので。来るかどうかもわかりませんけど、まあほぼ確実に来るので、それ考えたら時間なんてありませんからね。間に合わなくなるかもしれないんで。だからいつ来てもいいように、というかそれが来る前に、あるものは全部描かなきゃいけないってそれだけです」
「……それは、その……プライベートなことを、聞いてしまい、申し訳ありませんでした……」
「いえ、どうせそのうち話すことだったでしょうし。先に知ってたほうがそちらもやりやすいでしょうから」
その言葉には、悲哀など微塵もない。自分を憐れむ心など、微塵も含まれていない。単なる事実。その事実を自分はとうの昔に受け入れている。心などとうの昔に決まっている。行動がその証明。それは来る。来るから、ただ自分は走り続けるだけ。間に合うよう。
「――それは、その病気っていうのは、いつ頃から発症というか、支障が出てくるものなんですか?」
「わかりませんね。人によるんで。もちろん出ない可能性もありますし、明日から始まる可能性もあるので。それがペン入れしてる暇がない一番の理由です」
「そうですか……わかりました……いや、わかったなんて言えないし、何もわかってないけど、でも事情はその、一応は把握しました。それを聞いた上で、改めて確認したいんですけど、両原さんは漫画家になりたいと思っておられますか?」
「それはプロの漫画家、お金貰って描く、というより描いたものでお金がもらえるってことですかね」
「そうですね。連載です。連載して、原稿料貰って、単行本を出して印税をもらう。そういうプロの漫画家です」
「それは一応なりたいですね。お金貰えれば学校行く必要もなくて今より時間稼げるんで」
どこまでもそれだけが基準。ある意味徹底している。けれども彼女の状況を考えればそれは当然なのかもしれない。
「じゃあ漫画家になるなら学校は辞めると」
「そうですね。いるうちはですけど」
「……ただ、プロになるというか、商業でやるとなるとペン入れはさすがに絶対だからさ。色々あるけど単純に印刷した時ちゃんと線が出ないといけないっていうのもあるし」
「それ以前にそもそもそちらで連載するとなると週刊ですよね? 多分週十九ページでそれだけ。それ以上のペースで描かせてもらえますか?」
「……というか、そもそも現行の週刊連載、週十九ページですら異常というか、ほとんど不可能な領域でやってるから。ペン入れして背景もってなるとアシスタント何人もいてようやくだし」
「だと時間的にもあれですね。お金はまあ、別に自費出版といいますか電子で売ることもできるんで。収入は段違いですけど漫画描いて生活できる分だけあればいいですし」
「それも一つの選択肢としてはあるかもしれないけれど、商業とはあまりにも広告力、拡散力が違うからね。両原さんの漫画がどれだけすごくても口コミで届く範囲なんて限られてるし。私は、あなたの漫画をなるべく多くの人に読んでほしいと思ってる。少しでも多くの人に。そのための力になりたいし、私たち編集部には、出版社にはその力がある。両原さんはどう思ってる? 少しでも多くの人に読んでもらいたいとは思わない?」
「正直どうでもいいです。私にとってはこれを描くこと、存在させることが大事なので」
「……でも沢山の人に読んでもらわないと、それは存在してないのと同じだとも思うけど」
「そうでもないと思いますね。それにたとえ商業に乗らなくても私が描いた漫画は十分読まれると思うので」
「そっか……じゃあまあ、現実的な話っていうか、現実的に実現可能な話としてさ。まず両原さんは今すぐ描きたいんだろうしやるとなったら学校辞めてでも描くんだろうけど、こちらとしてもそれは勧められないと言うか、少なくとも高校卒業するまではってことにはなると思う。在学中だったとしても学校は辞めないでって形で。そうなると週刊はさすがに現実的じゃないっていうかさ」
「時間短縮ならいきなりペン入れもありますけど」
「いきなりって?」
「下書きなしですね。今やってるのを鉛筆じゃなくてペンでやるだけです」
「……いや、そんなことできるの?」
「できると思いますね。ただその場合は多分デジタルのほうがいいでしょうし授業中とかいつでもどこでもできるわけじゃないんで効率かなり落ちるんでやりたくないですけど」
「それは、確かにね……」
「あとはこっちは下絵までやって後は人に任せるとかじゃないですかね」
「人って?」
「アシスタントっていうんですかね。ペン入れ以降は。下絵のとおりに描いてもらえればいいですし。別に他人がペン入れしたくらいで私の漫画がどうこうなるなんてこともないんで」
それは、凄まじい自信。ペン入れという絵に命を吹き込む行為。自分の絵が、腕が、もろに出る行為。それを他人に任せたところで、自分の漫画は何も変わらないと。
「それは、でもいいの?」
「いいですよ。時間もったいないですけどどうしても違う部分だけ修正すればいいですし。背景も自分でちゃんと描きたいところは描いてるんでそれなぞってもらえればいいですし、必要ない部分はそのままかなんか適当な背景でも全然問題ないんで。とにかく私は今のペースで描ければそれでいいです。掲載とかはそっちに任せますし。そもそも別にまだ何も決まってませんよね?」
「それはね。賞とか連載会議以前の問題だし。でもすでに下絵までできてるなら、それに何人かでペン入れするだけなら確かに……」
ただの原作とは確かに違う。作画も、殆どやっているに等しい。しかし下絵そのままに忠実に、さらに言えば両原の要求通りにペン入れをできるという作家が、それでいいそれをしてもいいという作家がどれほどいるか。
心当たりはあった。一人いる。彼女なら、とも思う。もちろん一人に任せることなどありえない。けれども今の彼女なら、というより今の彼女にとっては、悪い話ではないかもしれない。
「確認だけど、つまり両原さんは自分は今のペースで描き続ける。それはいわば下絵の状態まで。それでそこから先は、ペン入れに背景にトーン、そういう仕上げは人に全部任せていい。そういう体制であれば連載をしてもいい、ということかな」
「そうですね。面倒ですけどペン入れ含めてある程度の指示はしますし確認して修正の指示もするかもしれません。でもまあ自分もその辺に関しては経験ほとんどない素人なんで、多分プロの人のほうが確実にできるんで基本は任せます。あと一つですけど、私ネームは描かないんで」
「というと?」
「まず今の時点でネームは一切描いてません。最初から下絵です。下絵がネームだしネームが下絵です。なので一般的な連載のようにまずネームを描いて編集者に確認してもらって、ネームが通ったら描き始めるということはないですしできませんし、するつもりもないです。そんな無駄なことしてる時間ないんで」
「……それはつまり、こちらが言っても絶対にネームの描き直しはしないってこと?」
「内容に理由に程度によりますね。全ボツとかは無理です。ほんとに少しならやるかもしれません」
「……一応言っとくけど、こっちも会社だし、商品として出すし、それに出版コードとかがある以上さ、どうしても表現とかを変えてもらわなくちゃいけない部分は絶対出てくると思うんだ。そういうのはオッケー?」
「言葉の修正とか表現の一部を変えるだけなら対応できるかもしれませんね」
「そっか……こっちとしても色々あるけど、一応話としてはあの今ネットに上げてる、連載してるやつをそのまま商業誌でやるっていう案もあるんだ。それだとすでに読者はいるし、それ考えるとやる前からある程度の売上は計算できるし。そうじゃなくてもあれはもうほんと面白いから商業ベースに乗せれば確実に読者はつくし売れるし。なによりすでに下絵まであるから、それをそのまま使えるし。私から見てもあれは正直、変えるところ見つからないし。あれをネーム、そのまま下絵として使っても多分なにも問題はないと思う。両原さんが描き直したいか否かがすべてで」
「そちらが問題ないならこちらも問題ないですね」
「そっか。ちなみにあれって今どれくらい原稿溜まってる?」
「優子」
「はいー。今ネットに上げてる分にプラスで五十話分はありますかねー。今両原さんが描いてるのもそれですし」
「ちなみに巻数でいえば二十巻ちょっとで終わるはずです。引き伸ばしはしません」
「そっか……まあ私も、立場としては弱い編集者だし担当が変わることだってあるかもしれないけど、でもこの世界は、絶対的に売れてしまえばそれも通せるだけのことはできると思う。なにより両原さんの漫画にはそれだけの力があると思うし」
「そうですか。繰り返しますけど私は私のペースで描き続けるだけなんで。終わればまた別なの描きますし。すでに描き終えてるのも大量にあるのでそっちも見てもらって連載したければしてもらって構わないです。もちろん大幅な書き直しは出来ませんけど」
「……わかった。とりあえずこれまでのものを、可能な範囲でいいから送ってもらえるかな」
「わかりましたー。結構膨大な量ですけど、これが終わったら随時送らせていただきます」
と豊葦が答える。
「他のやつも全然同時に連載してもらっても大丈夫なんで。こっちとしては収入源増えたほうが確実に学校辞めれますし。別の雑誌とかウェブとかでも全然構いませんし」
「それは、一つ目が爆発的に売れれば、というか売れると思うけど、そうなれば問題なくそうなると思う」
「ならそれでお願いします」
「うん。それじゃ、こっちではちょっと作画の人のあてがあるっていうかさ、この人ならっていうのがあるから、これ終わったらメールでその人の名前とか作品もちょっと確認してもらいます。もちろんその人が承諾してくれるかはわからないけど」