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その日から改めて手代木は机に向かい続けた。自分が描かなければこれは存在しない。そう思って封印していた創作に復帰した。練習ももちろん重要だ。まだまだ足りない。でもそればかりしてはいられない。時間はないのだ。時間は限られている。明日死ぬかもしれないのだ。ならば。
自分の中にある物語を形にする。人物を形にする。描く。ただ描きたいから。それが正しいのかなどわからない。作品に対する責任などわからない。それでも指針は自分の「描きたい」以外存在しない。だからそれに従って描くしかない。
とはいえこれまで同様にただがむしゃらに描くわけにはいかない。それでは変化はない。成長はない。描く中で成長していくしかない。漫画を描くのもすべて絵の練習として同時に完遂していくしかない。
妥協しない。適当に描かない。納得いくまで、正しい絵になるまで描く。何度も描き直す。正しい絵を描くことこそ練習だ。けれども正しい絵を描けないことなど常にある。どう描けばいいかわからない絵はいつだってある。けれどもそこで妥協しない。手を抜かない。時間は有限だが、時間をかける。ちゃんと資料を見る。便利なもので今はネットを調べれば3Dモデルを好きな形に動かしたりできる。デッサン人形もある。なんとか、なんとか、調べて、見て、見て描いて、正解に辿り着こうとする。ただ描くだけではなく次は見ずに描けるよう、頭をフル動員させなんとか頭と体に染み込ませようとする。
そうして描いた。描き続けた。これまでとは違う、妥協など一切ない産物。一挙手一投足まで集中し魂を込めた産物。手代木はそれを両原に見せる。
「ちょっとでいい! ちょっとでいいから俺の漫画見てくんない!?」
「描きながらなら」
「もちろん! どうすりゃいい? 置いとく?」
「いや、目の前に持ったまま立てて見せて」
「こう?」
手代木は言われた通り両原の正面に移動し、漫画が描かれたコピー用紙を両手で持つ。
「そのまま動かないで。顔上げたら見る。顔上げたら次のページ移って」
両原は手を動かしたままそう言う。そうしてしばらく描いた後、少しだけ顔を上げ手代木の漫画に目を通し、すぐにまた自分の紙の上に視線を戻す。手代木は言われた通り次のページを一番前にする。それを繰り返していき、両原は最後まで目を通す。
「以上です」
「わかった」
「それでその、感想というか」
「……見ての通りだけど、私ああいう読み方しかしてないから。自分としては最低限読んでるけどあんたからしたら全然ちゃんと読んでないだろうし」
「いやもう、そこは全然。こっちが無理言って頼んでるわけだから。それに話じゃ持ち込みとかの時も編集者はめっちゃ早く読むとかじゃん?」
「らしいね、知らないけど。でも早く読むのにも意味はあるし」
「というと?」
「あんたはさ、普段どうやって漫画読んでる?」
「え、っと、どうって、普通にこう、両手で持って……」
「聞き方間違えた。じゃあさ、どうやって新しい漫画探してる? というかどういうふうに出会ってるっていうか、どうしてそれを読もうと思うかって話だけど」
「え、っとそれは……一番はやっぱり話題になってるのとか、人気があるのだけど」
「そうじゃなくて自分の目で。売れてるのだって読むの読まないのは選ぶでしょ」
「あーうん、まああらすじとかコメントとかも色々あるけど……一番は絵かな」
「それはどういう意味で?」
「……単純に好みの絵ってことかな。あとはまあ、実際読んでみて絵とかもそうだけど読みにくいというか見にくいとかだとちょっと敬遠するっていうかそこで止まるけど」
「そう。あんた『チャンプ』とか読む?」
「もちろん」
「全部読んでる?」
「いや、全部は読んでない。読んでるやつだけ」
「大体の人はそうだよね。立ち読みとかする?」
「基本ね。お金ないし」
「じゃあさ、たとえば自分が普段読んでる漫画の掲載順が一番目、五番目、十番目とかだったりしたとするじゃん。どうやって読む?」
「それは、まず開いて、一番最初に目当てのがあるわけだからそれ読んで、そのままパラパラめくって次の目当ての漫画探して」
「そのパラパラめくってる間にも途中の漫画っていうか絵は見るでしょ」
「そりゃね。絵で目当ての探してるわけだから」
「じゃあそのパラパラめくってる途中で明らかに自分の好みだって絵があったらどうする?」
「それは、反射的に止まるね。そういうので新連載知ったりするし読んでなかったのも読むようになったりするし」
「そういうこと」
「……つまり?」
「読むか読まないのかの判断はほとんどの人が一瞬目に入った絵で判断してるってこと。あんたもそうなんじゃない?」
「それは……確かにそうだな」
「わざわざ紙で雑誌で掲載してるっていうのはそういうこと。人気ある作品の間に挟んで目に入る機会を増やす。とにかく視界に入らせて気づかせて見つけさせて読ませる。そしてそれは全部絵で決まる。だからとにかく何よりもまず絵が重要」
「そういう」
「ていっても最近は紙の雑誌なんかも減ってきたけどね。そこを入り口にするって人も。わざわざ買う人もそうだし立ち読みする人だって減ったし。でも基本は同じ。入り口はすべて絵。すべてって断言していいくらいに。ウェブでも読むでしょ?」
「もちろん」
「読むか読まないかの判断基準は?」
「……絵。というかサムネ」
「でしょ。あれも基本は同じ。雑誌とは少し違うけど、各掲載サイトにもアクセス集める人気作があるわけじゃん。人はそれを目当てに来る。その動線上に他の読んでほしい作品の絵、サムネを配置する。それでなんとか読んでもらおうとする。基本は一緒。とにかく絵を視界に入れる。単行本だって基本は同じ。雑誌掲載はあくまで原稿料による作家の生活基盤の支えであって単行本が本番、ってやり方は今じゃ普通だから。まあそれもしないとこ増えてきたけど。でもとにかく単行本で勝負する場合も表紙や試し読みでとにかく絵を見せるのが一番の入り口。ここまでの話わかる?」
「……絵が一番大事」
「そう。で、絵は私みたいなああいうチラ見みたいな感じでもわかるわけ。というかほとんどの人は初めての漫画はそういうふうにしか読まない。読まないというより見ない。見るだけ。ほんとに一瞬ちらっと視界に入れるだけ。だから『初めての作品との遭遇の仕方』としては私の見方が正しいの。編集者の高速読破も同じなんじゃない? それ知ってるから」
「なるほど……」
「とにかく『読んでもらえる』なんて思わないこと。人は誰も読んだりなんかしないから。そんな稀有な存在は一%もいないから。だから読むじゃなくて見る。それだけを考えて描く。だから絵が全部。誰もセリフなんか読まないしストーリーなんか読まない。それを読ませるには、とにかく絵がなきゃダメ」
「……で、俺の漫画は?」
「そこがダメ。全然足りてない。単純にペン入れしてないから線がはっきり見えないってのもあるけどそれは私が言えることじゃないし、ほんとに絵に力があったらそんなのも関係ないからね。本物の絵っていうのはどんなものだろうと見た瞬間にわかるから。少なくともあんたの絵はパラパラめくってて手が止まるような絵じゃない。それ誰かの模倣?」
「模倣というか、やっぱり好きな漫画家の絵柄真似して描いててこうなってるかな」
「そう。とりあえず個性がない。個性って言われても正直わからないだろうけど、今はとにかくその漫画家の劣化コピーでしかないって話で。コピーですらないけど。とにかく目に入った瞬間の力強さがない。引き止めるだけの力がない。だからそもそも興味を惹かれない。読もうとも思わない。色々あるけどまず目。絵も一緒。視線を合わすこと。読者との視線を合わせるの。まっすぐ読者の目を見て訴えかける。手を止めさせる。別に真正面見させろって話じゃない。もちろんそういうコマがあったほうが効果的だけど、でもそれだけじゃ当然作品として物語として破綻するし」
「……言ってることわかるけどめっちゃむずくない? いや、もちろんやるけどさ」
「当然でしょ。あとは単純に自分のこと考えればいいじゃん。あんたが思わず手が止まって引き込まれて好きになるようなキャラってどんなの?」
「……まあ、めっちゃ恥ずかしいけど正直に言うと、可愛い女のキャラ」
「でしょ? 別に恥ずかしがることなんかないじゃん。漫画読む人なんてみんなそうでしょ。かっこいいにかわいい。言葉とか性別が違えどとにかく見た目、容姿。自分の好きなタイプ。結局好きな絵柄なんてほとんどがこれだし。あんたもそういうの目指してるんだろうけど全然足りてない。もっと自分の好き信じていいんじゃない? 探求してさ。ありふれてるし突き抜けてない。自分の好きなキャラの何が好きかを突き詰めたら? 分析して。細かく見てけば色んな要素があるわけじゃん。それがいいと思うならそれ信じて、なんとかそれを再現してさ。それで自分で描いたキャラを自分で全力で愛して。そうすればキャラの魅力、絵の魅力は今よりだいぶ良くなるでしょ。そうすれば読者の手も止まるだろうし」
「いやほんと、まったく正論で……両原もそういうふうに描いてるの?」
「全然」
「全然って」
「私自分では描かないし作ってないから」
「は?」
「物語も世界もキャラもただそこにあるだけ。いるだけ。それ見てなるべくそのままに描いてるだけ」
「……いや、そんなもろ天才みたいなこと言われても」
「実際そうだし。私が描いてるんじゃなくて私はただ描かされてるだけだから。私は別に作ってない。そこにあるだけ。それに描かされてるだけ。だから私はただの道具。キャラとかも別に作らない。そのままにそこにいるからそのままに描き写すだけ」
「いや、でもそんなの反則でしょ……」
「そうでもないでしょ。意識的か無意識かの差で。結局自分が知ってることしか思い浮かばないんだし。引き出しの量が違うだけでしょ。私はそれが多くて自分の知らないとこで勝手にそれらが組み上がってるだけで。今まで散々見て描いてきたから。ずっとやってればわかるかわからないかだけになるし。私はただわかるだけ。一目でわかるの。描いてみれば一目でわかる。それ以外ありえないって。もちろんいつも常に最初から一〇〇%なんてことはないし、でもなんか違うなってことはわかるし、色々描いてこれが正解かってのもわかるから。正解ははじめからそこにあるの。あとはそれを探るだけ。その道筋は繰り返しによって簡略化されるってだけの話」
「……とにかくやりまくるしかないって話ね」
「当然じゃん。あとまあ、絵繋がりだけどさ、見てわかるけどあんたはほんとに全部練習だと思って背景までちゃんと描いてるみたいね」
「そりゃね。描かなきゃいけないんだし描かないと描けるようにはならないし」
「それは別にいいけど。まあ今はパソコンとかで背景もいくらでも資料とかでなんとかなるけど。でも漫画家目指してアシスタントなんかするようになったら描けないとあれだし、描けないより描ける方がいいっていうのは間違いないでしょ。自分の表現の幅広げて自分のイメージ通りに表現するためにも。
ただ今はまだ絵の邪魔してる。ただでさえイマイチの絵なのに背景のせいで画面がごっちゃになってひと目見た瞬間にどこを見ればいいかわからないってコマやページがある。もっと人間を全面に見せていいでしょ。読者だって背景よりキャラを見るんだから。とにかくそれも含めて、各コマ各ページで『これを見ろ』っていう視線誘導、インパクトが大事。何を見てほしいのか、何を見せたいのかを自分で描いてコントロール。極力客観的になって自分で改めて見てみたら? それと他の漫画もそういうふうに読む」
「はい、そっすね……ストーリーというか、そっちの方はどうですかね」
「一応あれでもちゃんと見てるから。セリフとか文章も全部読んでるし」
「あの一瞬でそこまでできんの?」
「繰り返せばできるようになるし」
「あ、そう……」
「とりあえずまだ初心者なんだしもっとテンプレート、いわゆるシナリオ作成の技術とかそういうのベタに参考にしたほうがいいんじゃない? 描きたいこと描きたいままに描いてとっちらかってるし。パターンなんてある程度決まってるんだから。それ含めてセリフはもっと削っていいでしょ。さっきも言った通り読者は読んだりしないんだから。文章読むために漫画読んでるわけじゃないし。文章多いだけで読まない人も多いし。言葉が一つもなくても何やってるか何が起きてるかわかるくらいに絵だけで表現できるようにしないとじゃん」
「……はい」
「あと単純に感情の揺れ幅がない。感動っていうとなんか泣いてるイメージあるけどそういうのだけじゃなくて、感情が動くものは全部感動だから。そういう起伏が全然足りない。人はさ、感動したくて、感情揺り動かされたくてフィクションを見るの。物語を。物語とかドラマとか起承転結とかいうけど、これは出来事そのものじゃなくてそれによって起きる登場人物、主人公の感情の動き。そういうものを見ている読者の感情の動き。喜怒哀楽なんにせよ読者の感情を動かさなきゃいけないわけ。そういうのをポイントポイントで挟む。上げ下げする。波を作るの。感情の波を。で、特に起承転結とか言われる部分ではひときわ大きい波を作ると。その波が読者を次へ次へって運ぶわけ。これもさ、そういうこと考えながら読んでみなよ。長編の連載物とかだと若干わかりにくいかもしれないけど、それでも毎回必ずそういうのはあるから。短編だともっとわかりやすいし。とにかく感情の起伏。読みながらさ、メーターみたいに紙に波書いてみたら? 波グラフっていうのあれ? そういうのをさ。ページ数とかコマごとに。ここで上がって下がって、動いてって。どういう感情の動き、喜怒哀楽なのかとかも」
「なるほど……それは確かにめっちゃ勉強になりそうっていうか、使えるな。そういうのってさ、やっぱなんかで読んだり勉強したわけ?」
「勉強ってわけじゃないけど全部自分の考えなんてことはありえないからね。色々読んでるし、読んで知って自分でもやってみてって。それを繰り返してれば自然とできるようになるし。あとはまあ、変化かな。とにかく変化。変化にこそカタルシスはあるから。人は変わりたいの。人が、何かが変わるとこを見たいの。それを見ることに快感を覚えるの。だから主人公が最初と最後で何も変わらないまったく同じ人物なんてダメ。出来事と感情の動きの果てに別の人間に変わってないとダメ。それは読者も一緒。読む前と読んだ後で読者が何も変わってないならダメ。読み終わって顔を上げた時に読者も何かが変わってないとダメ。描くのは変化。それもできれば望ましい心地よい変化。主人公だろうと世界だろうと。スタート地点とゴール地点が違う場所じゃないと旅する意味なんてないじゃん」
「そっか……それは、言われてみると当たり前だけどそういうこと意識して描いてたことないな……というか全部ただの妄想っていうか、思いついたことを思いついたままに描いてるだけだし」
「でも始まりなんてみんなそうでしょ。妄想がスタート地点なわけだし。人に言えないような妄想だってさ。そういうのをどう漫画の形に落とし込むか、ブラッシュアップするかだけじゃないの。いいじゃん妄想で。それが好きでそれが描きたいんでしょ? それがなかったら描くことなんてないし描こうとも思わないじゃん。描く意味だってないし、楽しくもないし」
「そうだな……両原も最初はそうだったの?」
「知らない。覚えてないけどそうじゃないの。子供なんてそういうものだし。全部気づいてたらでしょ。気づいたら描いてて、気づいたら読んでて、気づいたら知ろうとしてて、気づいたらそれが一番だったって」
「そっか……わかった。マジでありがとう。忙しいっていうか時間ないのにさ」
「別にこれくらいたいしたことないし。知ってることだけの会話で頭使ってないからなんの支障もないし」
「はは、ほんとすごいな……あんだけ喋ってても全然手止まらないしな。スピード落ちないし」
ほんと、どれだけやればそこまでいけるのだろうか、と手代木は思う。同時に、やらないことには永久にそこには行けないということもわかっている。
それにしても。やはり両原ははるか遠い。はるか先に行っている。スタートが全然違うから当然とは言え、あまりにもそこまでは遠すぎるように思えた。そんなことは彼女が描く姿、描いたもの、あの物量を見ればわかることであったが、こうしてきちんと細部まで言語化されると改めてその事実を突きつけられる。ただの天才じゃない。全部感覚でやってるわけじゃない。最初からできたわけじゃない。ちゃんと見てきたから。学んできたから。繰り返してきたから。そういう「努力」の日々の上に、しっかりとした基礎の上に立っている。だからこそその幹は太く頑丈で揺るがない。
当たり前だが、一朝一夕ではない。自分がいつかそこにたどり着けるのかすら不安になってくる。高校三年間のうちでなんて無理なんじゃないだろうか。
けれども、急げば。目標としてそれを掲げたなら、そこを目指すだけだ。近道などはない。焦らず、丁寧に。そして毎回これが最後だとすべてを注いで。自分だっていつ死ぬかなんてわからないけど、生きてたって描けない体になるかもしれないけれど、どちらにしてもわからない。まだ高校一年で、先はあるはずなのだ。先は長いはずなのだ。ならば、これが最後と思いつつ急ぎながらも、いつかできると、いつか辿り着けると信じて積み上げていくしかない。それ以外に、今の自分にできることなどないのだから。