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 ひたすらに描きまくった翌日は上半身のほとんどすべてが痛かった。肩に腰に背中。右半身は何よりも。右肩、右腕、右手。それは筋肉痛のようなもの。自分が今までどれだけ描いてこなかったかが、その事実がよくわかる。サボっていた。手を抜いていた。自分は本当の意味で、練習などまったくしてこなかった。「本物」を知ることでその事実に直面する。しかし打ちのめされはしない。ただ悔しく思う。時間を無駄にしてきたことを、ちゃんと使ってこなかったことを悔しく思う。


 それでもまだ間に合う。まだ終わりじゃないし、遅すぎるなんてことはない。自分はまだ高一。自分はまだ始まったばかり。今、両原に会えてよかった。あれを知ることができてよかった。描け、描くんだ。少しでも彼女に近づくために。自分の理想に、近づくために。



 そうして最初の一ヶ月が経過した。休みの日は一日中机に向かい、おそらく十二時間以上は描いた。それでもまだ足りない気がしたが。しかし体の痛みは描く度に徐々に薄れていった。やはり筋肉痛、筋トレと同じだ。体が覚える。体が慣れる。


 しかし絵の方は、上手くなっているのか自分ではいまいちわからない。上手くなっている、そのはずだ。けれどもたった一ヶ月では何も変わらないのかもしれない。自分でも見て明らかに下手な部分はわかる。模写は上手くなっても何も見ずに描くとなるとやはりまだ粗さが目立つ。そもそも細部において「ここはどうなっているのか」などわからない部分は多い。イメージ通りに描けない。そもそもイメージが間違っている。必然時間もかかる。まだ足りない。全然足りない。そんな中でも両原は一人先へ先へ、彼方へと進んでいく。何がその原動力かもわからないが、ともかく目にも止まらぬスピードで、光速で宇宙の果てへと進んでいく。その背は、初めから今に至るまで、一切見えない。



 毎日文芸部の部室を訪れていると他の部員に遭遇することもあった。


「おっすー。お疲れー。やってるねー」


 とやってきたのは三年で部長の鳴山(なるやま)であった。


「お疲れ様です。珍しいですね」


 と手代木は返す。


「たまには気分転換も必要だからねー。といってもやることは勉強で変わらないんだけどさ、場所変えるだけでも違うし」


 鳴山は笑いながらそう言い、腰を下ろして勉強道具を机の上に広げる。


「毎日大変ですね。塾も行ってるんですよね。やっぱ受験勉強ってそんなに早く始めないとダメなもんですか?」


「私の場合志望校が上だからね。今の自分より高いとこ目指してるし。なら勉強するしかないでしょ。まあ一年の時から毎日ちゃんとやってればってのもあるかもしれないけどさ、受験は自分がやってさえいればいいことでもないし。競争相手がいるから。やっぱり部活とか終わって本格的に受験勉強始まったらさ、みんな成績伸びてくるじゃん。そうしたら今まで自分より下だった人にも抜かされるわけだし。それ考えると今のうちにリード保っとかないとだからね。私なんて文芸部なんてほとんど活動ない部にいるわけだし」


「そうですか……大変ですね。でも活動って言うと一応部誌みたいなのは作るんですよね」


「一応ね。まあさすがに受験で忙しい後期のは辞退するけど、でも作る手伝いくらいはする予定。気分転換にもなるし」


「勉強で忙しそうですけど部誌に載せる何かとかは書いてたりします?」


「一応ね。一日一ページでも書ければいいほうかな。家で勉強の休憩にちょこっとね。まあさすがに外では書く気にならないというか、集中もそうだけどやっぱり少し恥ずかしいしね」


「そうですか……すいませんまだ部長の書いたのとか読んでなくて。過去の部誌置いてありますけどちょっと忙しすぎて」


「いいよいいよ。こっちもなんだかんだ知ってる人に読まれるのもこっ恥ずかしいし。別に自信ないとかじゃないけどさ。まー他にやることも読むものもいっぱいあるでしょ。手代木くんは別に馴れ合いのためにうち入ったわけじゃないじゃん?」


「それは……はい。すみません」


「いいよいいよ、こっちが聞いたんだし。うちらが書いたの読んでる時間あったらもっと売れてるの読んだほうが勉強になるだろうしさ。手代木くんは受験勉強とかはいつ頃からするつもりなの?」


「それは……正直今はまだ何も考えてないですね」


「そっか。まだ一ヶ月だもんね。手代木くんはさ、マジでプロの漫画家目指してるの?」


「……はい。なりたいと思ってますし、なるつもりでやってます。高校三年間のうちに最低でもその道筋っていうか、たとえば賞とかもらって……だからその、受験というか、そもそも進学っていうのも全然っていうか。正直それじゃダメだとも思ってるんですけど」


「そっか……まあ今はまだそれでもいいんじゃない? うちじゃかなり珍しいだろうけどさ。うちなんて一応は進学校で進路なんてみんな大学が基本じゃん。四年生じゃなくても短大か浪人で、専門すら珍しいくらいで。高卒で就職みたいなのですらほとんどありえないっていうか、今までどれくらいあるのかな。それ親は知ってるの?」


「いえ、まだ言ってません。というか言う気はないっていうか……反対とか以前に絶対許されないっていうか、ヤバいことになるのは目に見えてるんで」


「じゃあ今のこれも相当やばくない?」


「だから言ってませんよ。一応形だけ文芸部に入ったってことは言ってますけど、でも漫画のこととかは全然。これも学校で勉強してるって言ってますし」


「うわー。それは成績とか見られるとやばそうな感じだね」


「マジで怖いですほんと。一応やってはいますけど」


「そっかー……大変だよねみんな。それだと部誌なんて証拠残すのもあれかなー。一応ページ数もあるし部の活動だし最低限は何かしら描いてもらいたかったんだけどさ」


「ああ、やっぱやらないとダメですよね。名前出さなきゃ全然いいんですけど。親も別に見ないでしょうし」


「そう? ちなみに恥ずかしいとかはない?」


「それはまあ、多分ありますけどまだ何描くかも考えてないですし、描いたものによるといいますか。ただやっぱり自分はまだ絵が下手くそだって実感してめちゃくちゃ練習してるとこなんで、そういう意味ではまだこの不確かなものを出したくないってのはありますけど、でも本気でプロ目指すならそんなこと言ってられないですし」


「そっか。まあ考えといてよ。まだ時間はあるし。やっぱりさ、部誌っていうのは活動の証だからね。文芸部みたいな何やってるかいまいちわからないとこだと特にさ。伝統もあるけど、そういうのちゃんと残して示して活動してますよーって見せとかないと廃部になっちゃうから」


「ああ、そういうのもあるんですね」


「うん。部費だってもらってるわけだしね。まあいざとなったらページくらい両原さんがいくらでも埋めちゃってくれるだろうけどさ」


 鳴山はそう言い、少し苦笑し両原の方を見る。


「ほんとすごいよね。今もノンストップでずっと描き続けてて。私両原さんが描いてないとことか見たことないもん。一回廊下歩いてるとこ見た時くらい? これで会話できるし全部聞こえてるっていうんだからすごいよね。ほんとプロになる人間っていうのはこういう人なんだってわかった気がするよねー」


「そうですね……鳴山さんはこう、作家になりたいとかは思ってたりするんですか?」


「プロの小説家?」


「はい」


「いやー全然」


 鳴山はそう言って手を振りながら笑う。


「私なんてただの趣味みたいなもんだし。でもさ、そういうのは別にして、自分が書きたいってもの書いてそれ読んでもらってお金もらえたら、それ以上いいことなんてないよね多分」


「そうですね……」


「うん。だからまあ、多分書くことは書くんじゃないかなこれからも。ただやっぱり社会人とかなったらわからないからね。実際仕事始めたら忙しすぎてとかさ、もう疲れすぎちゃってとか。結婚とか子育てとかなったらもっとわからないし。そういうものより優先してとか、そんな中でも書き続けるとか、自分にそれだけのものがあるかは、正直今はまだ何もわからないかな」


「そうですか……」


「そうだね多分。大多数の人は」


 鳴山はそう言って座ったまま背伸びする。


「しかし来ないねー夏井のやつも。あれっきり? 手代木くんって夏井には会ったことあるの?」

「まだないですね。確か二年の人ですよね」


「そ。唯一の二年だし一応次期部長候補なんだけどなー。拗ねてんのか知らないけど。あの子も漫画描く方でさ。『部誌あんだから三年の分も描くこと決めとけよーというか漫画は時間かかんだし描き始めとけよー』とか連絡もしたんだけど『私なんか描かなくたって両原が勝手に描くでしょ』とか返してきて」


 と鳴山は苦笑する。


「ああ、なるほど……それはまあ、そういう感じですか?」


 手代木はちらりと横目で両原を見る。彼女の手は、当然こんな会話のさなかでも止まらない。


「まあそういう感じ。あいつも普通に漫画描けるし十分うまいと思うんだけどねー。ちょっと待って」


 鳴山はそう言うと立ち上がり、本棚から一冊の部誌を取ってきて広げる。


「これ。前回の部誌。夏井が描いたやつ。サラッとでいいから見てみてよ」


「はあ――普通に、うまいですね」


「やっぱそう?」


「はい。まあ高校生、高一でこれだけ描けるなら十分と言いますか、なんか偉そうですけど。でも少なくとも今の自分よりは断然うまいですし。話の方は正直、最低限できてるけど特に真新しさとか個性はないって感じですかね……」


「そっか。まあ確かにそうかもね。でもやっぱこれでもうちでは一番うまかったからさ。そもそもちゃんと完成させられるってだけで全然違うし。だからまあ部内にはライバルなんかいない状況だったけど。あの子も結構プライド高そうな部分あったからね。まあ創作やる人なんてみんなそうだろうしその方が成功するんだろうけど」


「そうですか……来なくなったのは、その」


「まあね。両原見てそのプライドが粉々っていうか、自信喪失みたいな感じだと思うけど。ほんと愕然としてたからね。全然喋らなかったし。その後来なくなったからさ、連絡したら『自分漫画なんて描いてられないんで勉強します』とか言って。ほんとに辞めたのかはしらないけど、まあそれからこんな感じ。まあ戻るにせよ時間はかかるのかもね。こんなかかるとは思ってなかったけど」


「そうですか……それはなんというかまあ、残念な話ですね」


「ほんと。でもさ、気持ちはわかるよ。私は漫画なんて描かないし小説だってそんな本気でやってるわけじゃないけど、でも若くてすごい才能とか見ると自分なんて書く意味ないじゃんとか思っちゃうし。多分漫画の場合絵とかもあるから尚更そうかもね。私から見たってさ、両原はちょっとすごすぎるから。手代木くんも読んだ?」


「はい、一応は。まだ全部じゃないですけど」


「そっか。私もそんな漫画読む方じゃないけど、でもあれはほんとにすごいってわかったなあ。才能ってほんとにあるんだって。自分より二つも下なんてとても思えなくて。手代木くんはどう? 打ちのめされたりしなかった?」


「そうですね……打ちのめされは、しました。ただ自分の場合はそれで絶望するとか諦めるとかはなくて、自分の場合はまだスタートラインにすら立っていなかったってことがわかったっていいますか、おかげでわからされたといいますか。だからその、比べて絶望するとかもまだまだ先で、ほんと始まったばっかりで、まだスタートすらしてないんだぞって教えてもらえた分ありがたいっていいますか」


「はは、なるほど。男子だっていうのもあるのかな。まあ夏井が戻ってきたらよろしくね。あの子もほんとは描きたいんだろうし。同じ部の仲間だしさ、漫画書く者同士として。手代木のことみればあの子も少しは安心するんじゃない? 別に自分は下手じゃないし両原が例外的なだけだって。こんな言い方するのも悪いんだけど」


「いえ、全然いいですよ。実際そうですし。見て教えてもらえる相手がいるほうがこっちもありがたいですし」


「そっか。向上心の塊だねー。でも君らも授業中にまで描くのは程々にしといてね。何度も見つかって注意受けるとこっちというか部にまでとばっちりくるからさ。最悪活動停止とか部費停止とか廃部まであるかもしれないし」


「ああ、そうですね……気をつけます。両原は全然お構いなしでしょうけど」


「かもね。ほんとすごい集中力。止まんねー。私なんかそんなぶっ続けて勉強できないよ。ほんと毎日毎日勉強でやんなるよねー。喋って少しは気分転換になったけどさ。でもやんないとなー。みんなの邪魔もできないし」


 鳴山はそう言うと「うしっ」と気合を入れなおし、すぐに黙って勉強に移るのであった。



     *



 鳴山が勉強を終え部室出ていった後。


「両原さん少し話しても大丈夫っすかね」


 と手代木は話しかける。


「別にいちいち確認しなくていいけど」


「あ、そう」


 出会ってから一ヶ月、手代木は未だに両原のことがよくわからなかった。そもそも交流らしい交流もない。会話は限定的。彼女はいつ見ても漫画を描いているのでこうしてそのまま会話ができるとはいえ邪魔になる気もするので話しかけるのもためらわれた。とはいえ、知りたいことは山ほどある。聞きたいことは山ほどあった。同時に自分が今それを聞いてもしかたないとも思う。聞いたところで自分はまだスタートラインにすら立っていない。せめて自分が最低限納得できるところまでいかないと、聞いたところでなんの意味もないとも。とはいえ、やはり気になる。一番の疑問は「何がそこまでさせるのか」という思い。何がこれほどまでの


 原動力を生んでいるのか。それがはたから見ていては、何もわからない。


「まあちょっと聞いてみたかったんだけど、部長いる時だとさすがにあれだったからさ。さっき部長が夏井さんって人の話してたじゃん。両原さんのこと見て諦めたっていうか、来なくなったって。ああいうのさ、実際聞いてどう思う?」


「別に? 何も」


「いや、何もって」


「関係ないでしょ私に。それはその人の人生なんだし。別に私のせいじゃないし。そういう選択するならすればいいし。自分がそれでいいならそれでいいじゃん。


 だいたい関係ないでしょ、漫画描くのに人がどうとか。人の描いたの見て刺激受けるとか参考にするとか影響受けるとかそういうのはあって当たり前だと思うけど、自分は自分が描きたいの描くだけじゃん。描くか描かないかそれだけなんだし。それで描かないことを選ぶならそれがその人の人生なんだし、限りある人生別の何かして過ごすだけでしょ」


「……まあそれはそうなのかもしれないけど、実際自分の作品というか、自分がそれだけの影響与えた事実に関してはさ」


「別に私のなんてそんなたいしたものでもないでしょ。こっちは描くしかないから描いてるだけで。このくらいの見て辞めるんなら遅かれ早かれどっかで辞めてたんじゃない?」


 先輩に対してこの言いよう。ある種の無神経さ。それは確かにイメージ通りの「天才」の振る舞いであったし、実際才能があるからこそ許されるのであろう。もっとも自分では自分が「天才」などとは思っておらず、才能があるとも思ってないのであろうが。というより、初めからそういう言葉を持たない。才能などというものは自分にはなんら関係ない。何故なら自分は、ただ描き続けるだけだから。描きたいものを、描かなければならないものを。


 何をどうしたらこうなるんだろう。手代木は強く、そう思った。



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