19
手代木は学校でも授業中でもひたすらに両原の漫画を描き続けた。そのネームをもとに下書きを描き続けてきた。この約二年間のおかげで、両原の真似のおかげで授業を受けているふりをしながらの作業もかなり手慣れてきていた。それでも何度も危ない場面はあった。問題は描けなくなること。それが取り上げられること。面倒事が増えて時間を奪われること。
放課後になると両原の家に直行した。そこでもひたすらに描いた。両原に見せダメ出しを受け修正した。とにかく少しでも近づけるよう、再現できるよう、極限の集中下で描き続けていた。そうして時間が来れば家に帰った。家でもひたすらに描き続けた。勉強など一切しなかった。それになんの意味もない。すべてはこれのためだけに。すべてが間に合わなくなってしまう前にと。睡眠時間も極限まで削り五時間。そこが一日集中を保てるギリギリのラインだった。それでも眠気も疲労も襲いかかる。肉体があるのが鬱陶しくなる。肉体がなければ漫画は描けないというのに。そのことは両原の病気で、痛いほどよくわかっているというのに。
学校に行くのも無駄にしか思えなかった。今すぐ辞めてしまいたかった。通わないことだって考えられた。けれども、それによって生じる数々の面倒のほうが作業に支障をきたすという計算で泣く泣く通い続けた。しかし問題は成績の急激な低下という形で表面化する。それまではなんだかんだ中間より少し下程度はあった成績が、下から数えて数番目というレベルまで一気に下降した。当然それは親にも知られるし、教師からも問題視される。しかし手代木には相手にしている余裕などない。そんな時間はもったいないし、集中力を割かれるのはゴメンだ。とはいえ家にいればそれからは逃げられない。かといって両原の家に入り浸っていては相手の家族にも迷惑をかける。だから両原の家のあとはファミレスに行き、夜遅くまでそこで作業をした。夜遅くに帰って風呂に入り寝た。そうすれば話しかけられることもない。というよりその隙をなるべく与えない。すべてを遮断するため耳栓をして眠る。夕飯は朝に食う。
といっても、そんな生活にも限界は近づいていた。冬休み、年末年始に入ればなおのこと。逃げる、逃げ続けるが、休みであれば両親ともに家にいるので逃げ切ることも敵わない。父親の力づくで、とうとう捕まってしまう。
説明しても、わかるなどとは思わない。わかってくれるなどとは思えない。もちろん全部は話せない。話してしまえば、両原に、その家に迷惑をかけてしまう。偽るが、偽らない。正直に話すが、すべては話さない。ただ熱意を、すべてを込めて、打ち込んで、説得し、ねじ伏せるしかなかった。
「どうしてもやらなきゃいけないことがある」
手代木は両親にそう話した。何よりも、自分の命より大事なこと。学校の成績や将来なんかより大事なこと。というより、これこそが自分の未来そのものなのだと。
漫画を描いている。俺は、本気で漫画家になりたい。本当に、漫画家になる事以外考えていない。そのために描いている。それだけが自分の人生だ。それを奪われたら、自分はもう死ぬしかない。それは脅し。脅してでも何をしてでも、押し切るしかない。時間がないのだ。間に合わなくなってしまうかもしれないのだ。自分は、なんとしても、両原の漫画を描かなければならないのだ。
両者一向に譲らない。長い戦いの末、父親が折れた。折れて、妥協案を示してきた。
「三年の夏休みまで。そこまでだ。そこがデッドライン。そこから先は、絶対に受験勉強をしてもらう」
と。
「正直俺もお前のことを言えた立場じゃないからな。俺もずっと部活をしてて、部活こそが一番で、それまでは成績だって酷かった。でも部活が一番大切だったし、受験は引退してから、最後の大会が終わってからでいいと思ってた。けど実際はそんなうまくできなかったけどな。喪失感というか、うまく受験勉強に移行できなくて。結局ほんとにちゃんと勉強を始めたのは十月に入ってからだったよ。ようやく焦りも出てきたし、自分の目標も定まって。そこから最初の一ヶ月は授業が終わってから毎日八時間勉強した。睡眠時間は毎日四時間だな。寝不足で口内炎ができてやばかったよ。その後はさすがに睡眠時間も確保したけど、でもとにかく勉強だけし続けてな。結果的に十月から始めたのに国立大に受かったよ。始める前はそりゃ酷い点数だったけど。だから俺は困ったことに経験で知ってるからな。十月から始めたって努力次第では間に合うって。でもさすがにお前にも同じように十月からなんてはいえない。間に合う保証はどこにもないし、あの睡眠時間はほんとにきつかったからな。だから夏休みが始まったら。そこからは絶対に受験勉強だけをしてもらう」
それが父親の譲歩に譲歩を重ねた提案であった。
夏休みまで。あと、およそ七ヶ月。それで間に合うのか。それはわからない。けれどもとにかく、時間は稼いだ、時間は稼げた。それがすべてだった。とにかく今、描ければそれでいい。他はどうでもいい。手代木はそれを飲んだ。そうしてまた漫画の日々に戻っていった。
両原の手は、体は日に日に悪化していた。まるで一日が一年かのような速度であった。けれども彼女はそれに抗い続け、描き続けた。次第に手はろくに動かなくなっていく。絵が描けなくなっていく。線が引けなくなっていく。それでも終わりが来るその日まで、描き続けた。
手代木もまた描き続けた。最初は両原のダメ出しも多かった。しかし次第に両原の意図をより速くより正確に汲み取ることができるようになっていった。描けば描くほど絵はうまくなっていった。両原の絵に近づいっていった。
三月になった。夏井は美大に合格した。いよいよ、その時が来た。
「え?」
両原本人から真実を告げられた時、夏井は文字通り固まった。手に持っていたものを、その場にぽとりと落とした。
「話した通りだし見たとおりです。今まで黙っててすみません。けど受験の夏井さんの邪魔をするわけにはいかなかったので」
「――いや、だって」
「絵を見ればわかります。もうかなり描けなくなってます。そのうち完全に描けなくなると思います。最近は歩くのもきついですし、そのうち車椅子ですね。喋れなくなるのは最後のほうかもしれませんけど、なので話したいことあるならいまのうちどうぞ」
「いや、どうぞって……」
夏井は両原が描いたネームを見る。そこには、かつての両原の絵の面影などどこにもない。子供の落書きのような雑な線。あれほど細部まで緻密に描かれていた執念もそこにはない。どこまでも簡素で、最低限。その目に見える絵こそが、何よりも如実にすべてを語っていた。
「今は下書きは手代木に描いてもらってます。本人がやりたがったんで」
「……いや、だって、なんであんた……なんで私に、言わなかったのよ……」
「話したとおりです。夏井さんの夢を、目標を邪魔するわけにはいかなかったんで。もろに受験と被ってましたからね」
「……でも、そんなの関係ないじゃん……私たち友達でしょ!? 仲間でしょ!?」
夏井の悲痛な叫びに、両原はふっと微笑む。
「夏井さん私のこと友達だと思ってくれてたんですね。嬉しいです」
「……何よそれ……そんなの、そんな素直なのあんたじゃないじゃん……」
夏井はそう言い、泣き崩れた。
「なんで、なんであんたなのよ……なんであんたが、両原がそんな目に遭わなくちゃいけないのよ……なんであんたが……」
「……わかってると思いますけど、あえて言います。それは私が一番思ってきたことです。私がずっと、散々、一番通ったところで……けどもう、それは過ぎたんですよ。そこはもう終わってて。これはもう、どうしようもないから、だから私はもうやるだけなんです。描くだけなんです。終わりが来るその時まで、描き続けるだけなんですよ」
夏井とは対象的に、両原はどこまでも冷静に、すべてを受け入れた様子でそう告げた。室内には、夏井の嗚咽だけが響いていた。
「――私もやる」
「やるって何をですか?」
夏井は、顔を上げた。その顔には、もう涙はなかった。涙の跡を、拭う。そうしてただ前だけを、両原だけを見つめていた。
「私も描く。あんたの漫画を。私だって、散々あんたの絵を描いてきた。真似してきた。だったら私にだって、手代木と同じことができるでしょ。私にだってあんたの漫画を描くことが、助けることができるじゃん」
「けどそれは……」
「あんたの意見なんて知らない。私はやる。描く。私にも、やらせてもらう。
私にも、あんたの手にならせてよ、両原」
「……これだってすでにやったことですけど、夏井さんには夏井さんの漫画が、自分の人生があるじゃないですか」
「これだって私の人生よ。それに舐めんじゃないっての。自分の漫画との両立くらいやってやるし、そんなのいつだって、いつからだって描けんじゃん。今は、今すべきことはこっちでしょ。私が今したいことはこっちなの。それに受験も終わって大学生で、こっちの方が時間はいくらでもあるっての」
「……夏井さんの強情さはよく知ってるんで、私には多分止められないですよね」
「当然じゃん」
「じゃあ、描いてみてください。それで私が判断します」
「望むところよ。手代木にできて、私にできないはずがないんだから」
夏井は描く。両原のもうほとんど絵もないネームから、下書きを導き出していく。それは初めてだと困難な作業。どれだけ両原の漫画を読み、その絵を真似てきたからといって簡単にはできぬもの。しかも手代木のスタートラインとは違い、そこにはもうほとんど両原の絵はない。
それでも、描いた。夏井は描いた。必死に、記憶をたどり寄せ、脳のすべてをフル稼働させ、両原の幻影を追った。その背中を追った。そこにあるはずだった線を探し求めた。
そうして最初の一ページを、何度も描き直し、時間をかけ描き直した。
「……まだまだですね」
「やってればもっとうまくなるしもっと正確になるしもっと速くなる」
「……ほんとにいいんですか? 私に人生預けて」
「違うでしょ。一緒にやるの。一緒に生きるの。一緒に背負うの。全部、分け合うの。だからあんたの半分、私にも頂戴。手代木があんたの右手なら、私はあんたの左手になる」
夏井はそう言い、自分の左手――彼女の利き腕、ずっと漫画を描いてきた、このためにあったかのような左手を突き出す。
「あんたは元々両利きでしょ? あんたは両手左右でしょ? その左に、私もなるだけよ」
両原は、涙を拭った。そうして天を仰ぐ。
「――私は、あなた達のことが大好きです。ほんとに、二人に会えてよかったです……私に、こんな私に、出会ってくれて、ほんとに、ありがとうございます……」
涙を、押し殺す。何度も拭う。拭っても拭っても涙はあふれる。手だってうまく動かない。それを見て夏井はティッシュを取り、両原の目元にそっと優しく当てる。
「当たり前でしょ。こっちこそありがとうね。なんだってやってあげるから。あんたは一人じゃないから。私は、遠くに行っちゃうけど、でもいつだってそばにいるから。一緒だから。たとえここにいなくたって、あんたの手として、一緒に漫画描くから。だから安心してよ。あんたには、みんながついてるんだから」
「……はい。ほんとに、ありがとう……」
両原に両手が戻ってくる。彼女はその両手を、取り戻した。新たな右手。新たな左手。
手さえあれが、漫画は描けるのだから。
*
四月になる。夏井は大学のため東京へと旅立った。しかしネットで繋がっている。豊葦のサポートもあるから、ネットを通し両原の漫画を描くことができた。
両原の手は次第に鉛筆も握れないようになっていった。もう満足に文字を書くこともできない。それでも口は動く。言葉にする。音声を残す。音声を文字に起こす。その二つで指示を出す。自分の表現を、自分の頭の中にある漫画を伝える。それはある意味これまで以上に効率がいい。全部、全部伝えていく。描いていく。たとえもう手が動かなくとも、漫画は描ける。それが両原の漫画だった。そしてその言葉を、二人の手が、限りなく両原の漫画としてこの世に具現化させていた。
両原は、車椅子になった。歩くのも難しくなっていた。手はもうほとんど動かない。長年酷使し続けたせいか、手から先に動かなくなった。そうして一人で食事もできなくなった。それでも描き続ける。言葉にし続ける。語り続ける。物語は、文字通り「物語る」ものだから。いずれその口も動かなくなる。声も出せなくなる。視線による文字入力の遅さは知っている。そうなっても語れるには語れるが、その速度は激変してしまう。本当に、間に合わなくなってしまう。
けれども終わりは見えてきていた。物語の終わりには、近づいていた。この三年、描き続けてきたもの。ウェブでの掲載から始まり、チャンプの連載に移行したその長編連載。もちろん連載自体は、彼女が語る物語にはとうてい追いついていない。そこまでたどり着くにはまだ何年もかかるだろう。自分は、はたしてそれを見届けることができるのだろうか。その時まで、自分の命はあるのだろうか……
でも、それは関係ない。信じている。託している。たとえ自分がいなくとも、みながそこまでたどり着くと。やり遂げると。手代木に、夏井に、豊葦に、鹿又に、数多のアシスタントに、湯本。そして、数え切れないほどの顔も知らない読者たち。
みなが必ず、そこまでこの漫画を運んでくれる。たどり着けてくれる。それを、心の底から信じている。漫画は自分一人で描くものではない。この漫画は、もうとっくの昔に自分一人のものではなくなっている。
両原は語り続けた。言葉にし続けた。徐々にその声も、うまく出せなくなっていく。喉がうまく動かない。口が上手く動かない。すんなり言葉が出てこない。終わりは、すぐそこまで来ているのかもしれない。でも、だからこそ。残さなければ。なんとしても残さなければ。そこまで、いかなければ。
そうして、夏が来た。
*
夏休み。夏井も地元に、この盆地の田舎に帰省していた。その日、みなが両原の家に集まっていた。両原の部屋に集まっていた。手代木に、夏井に、豊葦。みなが見守る中、両原はたどたどしく、つまりながら言葉を発し続けていた。
そうして、終わりがやってきた。最後の音が、やってきた。最後の言葉が、やってきた。
両原は、すべてを語り終えた。その漫画を、その物語を、語り終えた。ゆっくりと、疲れ果てたように、車椅子の背もたれに体重を預け天を仰ぐ。
「――おわ、った……」
三人はただ、涙を流した。
「――長ちゃん、ほんとに、ほんとにお疲れ……ほんとに、ほんとによくがんばったね……もう休んでいいんだよ。今までの分まで、いっぱい休んでね……」
豊葦はそう言い、両原を抱く。
「そう、だね……少し、休む……」
「うん、休んで……いっぱい休んでね……」
泣きじゃくる豊葦とは対象的に、両原はどこか恍惚とした表情を浮かべていた。
「――ほんとに、よくやった。よくやったよ両原。ここからは、私たちに、みんなに任せて。絶対に、完璧な、あんたの漫画にしてみせるから」
夏井もそう言い、涙を拭う。
「ああ。ここからは、俺たちの仕事だ。ここからは、もう全部、俺たちに任せとけ」
「――はは……みん、な、なにか、かんちがいし、てるけどさ……べつに、これでおわ、りじゃないからね……」
両原は恍惚とした表情のまま、そう言う。
「ほんと、わらっちゃ、う……かきおえた、ばっかなのに、おわった、ばっかなのにさ……『これが描けたら死んでもいい』、って、ずっと、そうおもってかいてきたのに……こんなさ、かけたところで、しんでも、いいなん、て、みじんもおもわないん、だから……」
両原はそう言って、ふっと笑った。
「ぜんぜん、こんなさ……これが、かけたらしんで、もいいなん、て、おもいもしないで……まだ、まだまだ、ぜんぜん、かきたいことしかなくて……かきたいことで、あたまが、いっぱいで……これがかけたら、しんでもいい、なんて、すこしもおもわなくてさ……」
そう話す両原の頬に、すっと一筋の雫が流れ落ちる。
「もっと、いきたいなあ……もっともっと、いきたいなあ……いきたくて、いきたくて、ぜんぜん、まだまだ、たりなくて……ほんと、いきたくて、しかたないなぁ……」
三人はただ、泣くしかない。その切実な言葉を前に、ただ泣く以外はできない。そうか、そうなのか。そりゃそうだ。
これが描けたら死んでもいいなんて、そんなことは永久にありえないのか。
「――だから、さ、みんなにも、わるいけど、わたしは、かきつづ、けるから……みかん、なんてかんけいなく、ほんとに、おわる、そのときまで、かきつづけるから……さいごの、さいごのそのいっしゅんまで、わたしは、ぜんぶ、かきつづけるから」
「――ああ、もちろんだ。俺も描くよ。描き続けるよ。お前の漫画を」
「私だって、私だって描き続けるから。最後のその時までずっと一緒だから。ずっと一緒に、描き続けるから。だからあんたもさ、こっちの面倒も見てよね。具体的にはお金だけど、あんたあんだけやばいほど稼いでんだから」
「はは……もちろん、とうぜんじゃん……」
そう言い合い、両原と夏井は笑う。
「そうだよな……全部終わりじゃねえよな……まださ、この漫画だって終わってねえのに……両原だって、お前の漫画だって全部まだ終わってねえのによ……じゃあやるだけだよな! やってやろうぜみんなで! なんてったってみんながいんだからよ!」
「そうだけどあんた受験大丈夫なの? 夏休みから完全にそっち移行するって約束してたんじゃない?」
「知らん! 押し通る! 金で納得させる! 自分で生きてけるだけの金が収入がありゃ黙らせんだろ! てことで両原悪いけど金貸して! 出世払い! 俺もそのうち超売れっ子になって十倍返しすっからよ!」
「はっ……べつにいいけど……でも、あんた、じぶんのまんが、かけてるの?」
「そりゃな。時間はかかってっけど、そろそろ下書きは終わるよ。そしたらお前にも見せるよ。読んでもらう。タイトルも――今日、ようやく決まった。というよりわかったから」
「そう……たのしみに、しとく」
「私の漫画だって見せてあげるから! 夏休みだしさ、時間はあるし! 夏休みの間ずっとこっちいるから! 大学の夏休みすごいんだよ!? なんせ九月末まであんだから!」
「夏井さんそんなこっちいていいんですか? あっちに友達とかいないんすか? バイトとか」
「うっさい! 友達はいるけどこっちのが大事でしょうが! バイトはこれが実質そんなもん! いやでも課題とかあんだけどさー、とにかくがんばって間に合わせるから!」
「はは……ふたり、とも、よく、そんなじかん、ありますね……」
「舐めんじゃないっての! こちとら漫画家志望よ!? なによりも漫画優先だし漫画のことしか考えてないんだから!」
「はは、ほんとっすよねー。そのせいで俺は進学すらぶん投げてますけど、でもおかげで最高の人生っすよ。完璧に一分の隙なく命使えてて」
手代木はそう言い笑う。
「じゃあ、仕上げだな。仕上げじゃないけど、こっから残りの下書きやってって。そこまでいって、ようやく完成だろ。まあそれでも完成ではないけど。鹿又さんたちの仕事あるし、そっちは時間かかっからなあ」
「あんた鹿又さんとこでアシスタントさせてもらえば? このままだと高卒無職でしょ」
「あーそれはありっすね。雇ってくれるかですけど」
「でも両原の漫画に関しちゃ私たちより上なんているわけないじゃん。私もお願いするつもりだし。両原の下書きやりながらだけど。でもそこまで時間あるかなー」
「デジタルならこっちいてもできそうですしねー。実際そういうアシスタント体制も最近はありそうですし。まー話してやってみますか。その前にこいつの下書きですけどね」
そして夏の終わりに、その下書きの終わりも――ある意味で、両原がその漫画に関わる最後の瞬間が、やってきた。
*
九月下旬。夏井が東京に戻る日も近づいていたその日、両原の家では最後の作業が行われていた。彼女が語った、言葉に残した、漫画の最終話、物語のその終わりを、ネームにし、下書きを描く作業。手代木と夏井の二人だから速度は速い。二人もこの数ヶ月で慣れに慣れ、限りなく両原本人の漫画に近づいていた。
終わりが近づく。残りページが徐々に少なくなっていく。終わりに、着実に近づいていく。
そして最終ページが訪れる。ページいっぱいの、主人公の笑顔。二人は、それを分け合って描き進めた。
そして最後の一筆。主人公の目。
「――両原。最後は、最後の線は、あんたが描くのよ」
「……でも、わたしは、て、うごきませんよ」
「何言ってんだよ。手ならあんだろ?」
手代木はそう言い、自分の両手を掲げて振り、夏井を見る。夏井も当然のように自分の手を振る。そうして豊葦を見る。豊葦も、自分の手を振る。
「お前の手は、六本だよ。お前の両手、俺の右手、夏井さんの左手、そんで幼稚園の頃からずっと一緒にやってきた豊葦の両手。全部で六本。六本もありゃさ、描けるだろいくらでも」
手代木はそう言い、両原の右に立つ。夏井が左に立つ。豊葦が、彼女の前に原稿を置き、その後から、彼女の両手を支える。
「行くぜ、みんなで。六本手で、描くぞ、最後の線を」
「――うん」
両原は、小さく頷いた。そうして四つの手で支えられた両手で、鉛筆を掴んだ。その先端を、紙の上に置いた。
そして最後の線を、引いた。
「――ありがとう。ほんとに、ほんとに、みんな、ありがとう……」
「ああ……でも、これで終わりじゃねえだろ。まだまだやるんだろ?」
「そりゃ、もちろん」
両原はそう言い、ニッと微笑む。
「だよな。てことで終わったところで余韻なんかなく行くけどよー、漫画描き終えたぜ! 下書きだけど! 早速読んでくれよな!」
「――はは、ほんと、よいんも、へったくれもない、じゃん」
「そりゃな。約束だろ? 第一よ、こんな傑作読まなきゃ損だぜ。読まずに死ねるかって傑作でしょ」
手代木はそう言い、両原の前に原稿を置く。そうして、一枚ずつめくっていく。両原は、しずかにその紙の上に視線を配る。
そうして、最後のページを読み終えた。
「――はは、ほんと……これ、わたしのこと?」
「ああ。お前のことだし、お前のねーちゃんのことだし、お前の家族のことだし――でも俺のことだし、夏井さんのことだし、豊葦のことだし、それに鹿又さんも、湯本さんも、すべての漫画家のことで、それにすべての読者、すべての人間のことだよ」
「はは……ほんと、あんたは……」
両原はそう言い、ふっと笑った。
「すごく、おもしろかった。ひゃくてん、あげる」
顔上げたその顔には、ただ笑顔だけがきらめいていた。
机の上の、手代木の漫画。その見開きの、最終ページ。そこにはデカデカと、その漫画のタイトルが書かれている。
『これが描けても死んでたまるか』
「百点か。そりゃまた大盤振る舞いだなー。でもよ、これで終わりじゃないのに百点なんかつけられても困んだけど」
「なに、いってんの? だれが、ひゃくてんが、いちばんうえ、って、いった?」
「――はは、そうだよな……何点だろうと終わりなんてねえもんな!」
手代木はそう笑う。窓の外には、夏の空が広がっていた。
青い空が、どこまでも、どこまでも、広がっていた。
この夏は、みんなの夏は、終わりなどない永遠だった。




