18
夏井がわざわざ手代木のクラスまで来たのは、両原が学校に行かなくなってからしばらくたった頃であった。
「手代木、ちょっと」
と教室に入ってきて声をかける。
「どうしたんすか夏井さん」
「ちょっと話がね。けど二年の教室来んのも緊張すんね」
夏井はそう言い教室を見回す。
「――両原はいないの?」
「あーまーちょっと」
「そう……あんたらさ、最近部室誰も来てないよね」
「あーそうっすね……まあちょっと外で話しません?」
手代木は廊下の隅まで夏井を連れてく。
「両原もさ、最近ずっと学校来てないでしょ」
「それなんすけど、あいついよいよ学校辞めるみたいで」
「は? それマジで言ってんの?」
「みたいですね。まー漫画のために」
「そう……なんで誰も私に言わないのよ」
「そりゃ夏井さんは受験直前で大変な時期じゃないですか。さすがに言えませんよ」
「それくらい気使わなくていいんだけどね……でもマジかぁ」
「はい。まーお金もそこそこ貯まったみたいです。それでまあ豊葦は両原が自宅にいるんでそっち行きますし、そうなると俺部室に一人なんでまーつまんないっていうか寂しいですし。そんなんで最近は部室誰もいないですね」
「そういうね……けどあいつも何もこの時期にっていうか、あと一年なのにね……まあ本人が選んだことならしょうがないし、残念だけど。でもこっちもたまには会いたいしなー。まあ食事くらい誘うか」
「いいんすか受験直前で」
「それくらいはしないとさすがに気が狂うし。でもどっちも忙しいからなかなか合わなそうだけどね。やっぱ受験終わるまでお預けかー」
「そっすねー。まーそれ希望にがんばってください」
手代木はそう言って笑う。本当のことなど、夏井には言えない。自分の目標に向けてがんばっている人間に、本当のことなど言えない。両原もそれは望んでいない。そうである以上自分が勝手に話すことはできない。
受験後。はたしてそれで、間に合うのだろうか。その頃には、両原の体はどうなっているのか。それはわからない。誰にもわからない。できるのは、ただ祈ることだけだった。
*
手代木も放課後両原の家に通い続けた。両原の手は、悪化することはあれどよくなることはなかった。日に日に目に見えて手が動かなくなっていく。手が止まる。鉛筆を握れなくなっていく。それは絵に、線により如実に表れている。そこにある絵は、線は、もはや以前の両原のものではない。弱々しく、汚く、そして描けないのでより簡素になっていく。両原自身の焦りも、怒りもはっきり目に見えるようになっていた。それはとても見ていられない、いたたまれないものであった。自分にも何かできないか。どうすればいいのか。手代木は思うが、そのたび自分の無力さを痛感し怒りが湧いてくる。ただ悔しい。ただ、指を咥えてみているだけなんて……
両原は何度も鉛筆を落とすようになっていた。握力が、握る力が著しく低下している。それは左右を変えてもたいして変わらない。進行は、あまりにも速かった。こんなにすぐ、こんなに目に見える形で、と手代木の心も痛む。しかし自分なんかより両原の方がはるかに辛いことはわかっていた。そしてその本人が、何度落としても、どれだけうまく引けなくても、何度でも鉛筆を取り机に向かった。それなのに、自分が勝手に打ちのめされていることなどできなかった。
それでもいずれ、限界は訪れた。
両原が、いつものように鉛筆を落とす。それを拾おうとかがむ。でも、うまく拾えない。掴めない。何度も試みてようやく、手に掴むが、それを引き上げる最中に鉛筆は無情にもぽろりと手からこぼれ落ちる。
両原が、ダンと机を叩いた。
室内に、静寂が広がった。
「――この……なんなのよこの手は……なんで思い通りに動かないのよ……ッ!」
両原はそう言い、自分の右手を叩く。何度も、弱々しく叩く。
「なんで、なんでなのよ! なんで、動けってのこの!」
「長ちゃん……」
豊葦がそっと、その手を優しく止める。
「なんで、なんで私なのよ……なんで他の誰かじゃなくて私なのよ……なんで私が、こんな目に遭わなくちゃいけないのよ……なんで私が……」
両原の押し殺した嗚咽が、室内に響く。それは、手代木が見る初めての両原の涙だった。
「なんで私なのよ……私がなんか悪いことでもしたっていうの? こんなの、ほんとに、間に合わなくなるじゃん……間に合うわけないじゃん……まだまだ、描かなくちゃいけないことがいっぱいあるのに……描きたいことが山ほどあるのに……間に合わないじゃん……全部描けないじゃん……こんなの、なんでなのよ……」
その痛みが、手代木にも手に取るようにわかる。何かしなければ。なんとかしたい。叶うものならば、俺のこの手を両原にあげたい。俺なんかより、両原のほうが描くべき人間なんだ。描くことを必要としている人間なんだ。描かなければいけない人間なんだ。
何よりも、自分がそれを、願っているんだ。
両原に、描くための手を――
手代木は、立ち上がると豊葦の机の上にあった原稿を掴む。そこに描かれていた絵は、もはや見る影はない。絵の基礎は残っているとは言え、その線は子供の落書きに近くなっている。ガタついた線。時間だってこれまでの何倍もかかっている。
手代木は、その紙を持って自分の机に座った。そうして白紙の紙をとり、描き始めた。
両原のネームを、下書きを写す。その荒く未完成な絵から、本来の両原の絵を、以前の両原の絵を、探し出す。見つけ出す。描き出す。できるだろ。俺にはできるだろ。できるはずだ。両腹の絵を、何万回って模写してきたじゃないか。あいつの絵はもう俺の手に馴染んでるじゃないか。描けるはずじゃないか。
俺はあいつの絵を知っている。俺ならあいつが何を描こうとしていたかわかる。そのはずだろ。必死に追うんだ。探すんだ。俺ならできるだろ。俺ならわかるだろ。
それは、俺にしかできないことだろ。
手代木は描いた。これまでの経験のすべてを動員し、これまでの記憶をすべて掘り出し、これまで見てきた、描いてきた両原の絵をすべて思い出し、存在のすべてを動員し、描いた。これは、こうのはずだ。この線は、こうなるはずだ。この人物の顔は、こうなるはずだ。これが、これこそが、両原が描きたかった絵のはずだ。
信じろ。信じろ。信じるんだ。自分にはそれができるって。それが、わかるって。
そうして一ページを描き終えた。描き終えた原稿を見て、手代木は、一つ頷いた。
そうして立ち上がり、両原の元へと向かい、描き終えた紙を彼女の前に置いた。
「両原、俺が描く」
「――は? あんた、何言ってんの……?」
「これを見てくれよ。そりゃお前の絵に比べりゃ全然だけど、でも最低限は真似できてるだろ。再現できてるだろ。お前が描きたかったはずの絵を、ある程度は追えてるだろ」
両原は、その原稿を見る。その絵を。自分の絵によく似た、手代木の絵を。
「両原。俺にお前の手にならせてくれ」
「……何言ってんの」
「俺はお前の手になりたいんだよ。お前の代わりに、俺に描かせてくれ。両原は、描きたいものが山程あんだろ。間に合わなくなるんだろ。それを全部、描き留めておかなきゃならないだろ。どういう形でもいい。ほんとに簡素なネームでもいい。それが難しいなら文章でもいい。でもとにかく、全部描いてくれ。それだけに集中すれば間に合うかもしれないじゃないか。下書きは、絵は俺が描く。だから両原は、物語だけを描けばいい。それなら今よりずっと速くできるし、間に合わせることも、できるかもしれないじゃんか」
「……そんなの、できるわけないじゃん……」
「なんでだよ」
「……あんたに、そんなことさせられるわけないでしょ!? あんたには自分の漫画があって、自分の人生があるのに……それなのにそんな、私の尻拭いみたいなこと、他人のあんたに、あせられるわけないじゃん!」
「心配しなくたって俺は俺の漫画だって描くよ。でもさ、これが俺の人生なんだよ。これが俺の一番したいことなんだよ。それが俺が歩みたい自分の人生なんだよ。
俺は、お前の手になりたいんだよ両原」
すべてが、繋がった気がした。すべてがわかった気がした。自分が何故生まれてきたのか。生きてきたのか。この逃れられぬ田舎の盆地の底に生を受けたのか。そうしてあの学校に行き、両原に出会ったのか。
自分が何故漫画を描いてきたのか。漫画に惹かれたのか。漫画家になりたかったのか。両原の漫画に惹かれたのか。彼女の漫画に、強く憧れたのか。そして彼女の絵を、ひたすら真似しひたすら模写し続けてきたのか。
全部この時のためだったんだ。全部、すべては、この瞬間のためだったんだ。俺が彼女の手になるために。そのために俺は、漫画を描いてきたんだ。
それが俺の運命だ。それが俺の人生だ。全部わかった。全部わかる。
それこそが、俺が本当にしたいことなんだ。
「頼む、俺に描かせてくれ。これはお前のためだけど、でもそうじゃないんだ。俺のためでもあるんだ。みんなのためでもあるんだ。俺は、お前の漫画が読みたいんだよ両原。お前の漫画を最後まで読みたいんだよ。見たいんだよ、お前の漫画を。その人生を。お前が『これが描けたら死んでもいい』ってそう思えるその時まで、そんな漫画を描ききれるまで、お前に描いてほしいんだよ。そんな漫画を、お前に描いてほしいんだよ。読みたいんだよ。
だから頼む。俺に描かせてくれ。それは俺にしかできないことだから。多分世界で唯一人、俺にしかできないことだから。俺がすべきことで、俺がやりたいことだから」
手代木の言葉に、両原はうつむいたまま返す。
「……私は、私の人生にあんたを巻き込みたくない」
「俺が勝手に飛び込んだだけだよ。それに巻き込まれてんならとっくに巻き込まれてるしな」
「……私は、私のせいで誰にも迷惑なんかかけたくない……」
「迷惑じゃねえよ。むしろ至上の喜びじゃねえか。これなんだよ。俺が漫画を描いてきた意味は。その理由は」
「……私は、自分のせいで、誰かの夢を奪いたくなんかない……」
「奪えるわけないだろお前に俺の夢が。お前にだって俺の夢は奪えねえよ。心配しなくたって俺は自分の夢だって一緒に追いかけてみせるよ。そもそもこれだって俺の夢なんだよ。第一さ、お前がいなかったら、お前がいなかったら俺だって夢なんか持てなかったよ。信じられなかったよ。ここまで来れなかったよ。
全部、もらったもん返すだけなんだよ。ただ全部分け合いたいだけなんだよ。それだけだよ両原。それだけなんだよ、俺にあんのは」
「……あんたに、あんたなんかに、私の絵が描けるわけないじゃん……」
「そりゃな。誰にもお前の絵は描けないだろ。どうやったって俺の絵にしかならねえよ。
でも、死ぬ気で努力すっから。死ぬ気でがんばるから。俺はさ、世界で誰よりもお前の絵を追いかけてきたって、真似してきたって自負があんだよ。俺にできなかったらさ、俺がやんなかったら、他に誰がやるっつうんだよ。
両原、何度でも頼む。俺に描かせてくれ。俺に、お前の手にならせてくれ」
手代木はそう言い、深く、深く頭を下げた。
「――あんたバカじゃないの……? 漫画の読みすぎで、頭バカになってんじゃないの?」
「かもな。でもそれは本望だろ。漫画好きで好きでたまんないやつが、本気で漫画家なりたいってやつが、漫画のように生きられたらさ。それ以上のもんはどこにもねえだろ」
「――はっ……はは……ほんと、ほんとどうしようもないバカだねあんた……」
両原はそう言い、涙を拭った。
「わかった。そこまで言うならやらせてあげる。でもいい? わかってるだろうけど、あんたは当然私じゃないしまだ下手。それにこれは仕事でやること。お金もらうこと。読者がいること。適当なんて、妥協なんて絶対許されないから」
「もちろん。わかってる」
「それと当然あんたにすべては任せられない。これまでと違って鹿又さんにも下書きには手を加えてもらう。今までみたいに、私が描けてた時みたいにそのまま忠実に再現、なぞるなんてことはないから。そこは私も注文入れるし、あっちの裁量でやってもらうことになる」
「わかってる。当然だ」
「それで私は、ひたすら描く。ネームを描く。最初は多少は絵も入れると思うけど、多分そのうちそれも満足にできなくなると思う。そうなったらほんとに、あんたの想像にかかってくる。ほとんど一から、あんたが描くことになる」
「わかってる。死ぬ気でお前の絵を、漫画を読んで真似して勉強して、どこまでもお前に近づいてみせるよ」
「そうして。文字もそのうち書けなくなると思うから音声で録音してくことになると思う。しゃべるにしたっていつまで話せるかもわからないけど。でもそうして、なるべく残す。なるべく遠くまで行く。なるべく最後まで行く。私は死ぬ気で、終わりまで行けるよう、間に合わせられるよう急ぐ。だからあんたも死ぬ気で急いでよね。自分の人生捨ててこっちにかけるんでしょ? それだけの覚悟を持って言ってるんでしょ?」
「ああ、もちろんだ」
「――わかった。お金の面倒は見てあげる。他のことは自分でなんとかして。それはあんたの人生なんだから。私はもう遠慮もしない。こっちに来るなら、家族も学校も生活も全部ねじ伏せて、来なよ」
「ああ。行くよ」
そうして、手代木の第二の人生が、彼女の手としての人生が、始まった。




