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 その変化に、手代木はほとんど気づけなかった。第一に自分のすることでいっぱいいっぱいだったから。受賞したことは励みにもなったが、逆にプレッシャーにもなっていた。ここで止まってはいられない。早く続きを描かなければ。新人なんて、才能なんて次から次へと現れる。描かなければ自分なんてすぐに忘れられてしまう。だから次を、新しいものを描かなければならないが、どれを描けばいいのか何を描けばいいのか自分でもわからない。とりあえず片っ端からネームを描いていくが読み返してみても自分で納得できるものはできない。これ以上は自分ひとりで悩んでいてもしかたない。多分先へは行けない、突破口は開けない。とはいえまだよく知らない担当にそんなことは頼めない。相手も膨大な量の仕事で忙しいはずだ。それに自分はまだ、その言葉を信じてもいないし欲してもいない。自分の指針は変わらない。両原。彼女こそが自分の指針。彼女の言葉こそが自分を先へと連れてってくれる。こんなネームだろうと読んでもらえれば何か言ってもらえて、何かしら突破口も示してもらえるはずだ。手代木はそう思い、両原にいくつかの自分のネームを見せることにした。


「両原。ちょっといくつかネーム見てほしいんだけど」


「いいけど、自分ではどんな感じなの?」


「正直わからないっていうか、ダメだと思うけどなんでダメなのかとかどうすればよくなるかとかわからない感じで。なんていうか、必然性がないっていうのかな。これを良くすればいいのかもわからないし、正直何を描けばいいのかわからないような状態で。そんなネームでほんと悪いんだけどさ」


「別に。こっちも気分転換にはなるし」


 あの両原が気分転換? と手代木は思ったが、特に気にせずネームの紙を両原に渡す。両原はそれを受け取り、読み進めていく。


 紙が一枚、はらりと両原の手からすり抜けて落ちた。床に落ちたその紙を、両原は拾おうとする。しかしうまく掴めない。掴んでも、すぐにまたするりと落ちてしまう。手代木はそれを拾い、両原に渡した。


「……ありがとう」


「いや、別にこれくらい。大丈夫?」


「……なんか最近握力が落ちてるっていうか、うまく力入らなくて」


 両原はそう言い、自分の手を見つめる。



 ――それって……



 その先の言葉を、手代木は口にできない。いや、まさか。そんなこと。ただの疲れだろう。腱鞘炎だろう。自分だって散々描きまくったあとはうまく力が入らないことくらいある。手が痺れ震えることくらいある。別にそれくらい、普通のことだ。


 でも、両原の場合は――


「まあ、いくら両手使ってたって疲れるよなそりゃ。形はどうあれ週刊連載なんてやってんだし。あんまり肩とかこりすぎると神経圧迫されるとか言うしさ。銭湯行ったり整体とかマッサージ行くのもありなんじゃね? 金あんだしマッサージ機とかさ。まだネームも下書きも貯金あんだろうし、一日くらい休んでも大丈夫でしょ」


「……あんたそれ本気で言ってる?」


「……え、本気って……」


「わかってんでしょ。別に気使わなくていいし。もちろんそれだってあるかもしれないけど、そうじゃないことだってあるわけだし」


「……いや、でもさ!」


「あんたにはわからないでしょ。医者じゃないんだから。私の体は私しかわからないし、私だってわからないんだから」


「長ちゃん……」


 豊葦が、心配するように両原を見る。


「……ごめん、私帰る。どっちにせよ早い方がいいし、すぐどうこうできることでもないだろうから」


 両原はそう言って立ち上がった。


「――大丈夫だよきっと。そんなことねーって。ただの疲れで、それくらい漫画描いてるやつにとっては普通だしさ」


「……あんたが、私も自分も安心させるためにそういうこと言うのはわかる。一応ありがとう。でも、私はもう何年もこんなことないから。両手で描き始めてから、一日中やったってこんなこと。何日も、徐々に悪化してくなんて、今までないから。だからわかってる」


 両原はそう言い、一つ息をついてふっと笑った。


「まあ、わかってたって受け入れられるかは別だけどね」


 その笑みは、形容しがたいものだった。手代木は今まで、人がそんなふうに笑うところを見たことがない。諦めか。悲哀か。自身に対する同情か。


 運命に追いつかれたものにしかわからない、絶望が生み出すものなのか。


 両原は部室を出ていった。手代木と豊葦の二人だけが、部室に残された。それは手代木にとって初めてのことだった。初めての、両原のいない部室。初めての、下校時刻前にいなくなる両原。


 すべてを凍りつかせる冬が、近づいていた。



     *



 翌日、朝から両原の姿は教室になかった。放課後になるまで学校に来ることはなかった。当然部室にも、その姿はない。手代木が一人椅子に座りぼーっと天井を眺めていると、豊葦がやってきた。


「ああ、豊葦さん……」


「お疲れ、手代木くん」


「うん……両原今日学校来てなかったけど、なんか聞いてる?」


「うん……まあこれは言ってもいいって言われてるけど、長ちゃん今日は病院に行ってるって」


「そっか……」


「うん。結果とかは、まだ聞いてない。そんなすぐわかるのかもわからないし」


「……豊葦さんは、やっぱりその、そうだと思う?」


「……わからない。もちろんそうであってほしくないけど、でも……」


 豊葦はそう言い、鼻をすする。その目元は潤んでいる。それはあのいつだって柔和な笑みを浮かべている豊葦が手代木に見せる初めての涙だった。


「そっか……ほんとに、そうじゃないといいんだけど……」


「うん……私も、今日は帰るね。そんなことしたって意味なんかないんだけどさ、でも神社にでも行って、神様にでもお願いしないと、いてもたってもいられないし、耐えられないし……ほんとにそんなことしかできないし、そんなことしたって意味なんかないんだけどさ……」


「そんなことないよ……祈りが届くかなんてわからないけど、でも祈るしかないんだし、そういう気持ちは祈ることでしかどうしようもできないんだろうし……両原にとってだってさ、励みに、力になるよきっと」


「……ほんとに、そうだといいんだけど……」


 豊葦はそう言い、鼻をすすり目元を拭った。


「じゃあごめんね。私は帰るから。手代木くんも、がんばってね。自分の漫画」


 豊葦はそう言って部室を出ていった。また一人、手代木は室内に残された。静寂が広がる。手代木は一つ息をつき、天井を見つめる。


 本当にその時が来てしまったのだろうか。両原は、己の運命に追いつかれてしまったのだろうか。そんなことあっていいのだろうか。なんで、どうしてあの両原が……


 けれどもそれはある意味誰にでも平等なもの。運命は、死も停止も誰にでも平等に明日にでも用意されているもの。自分だって、同じことがあるかもしれない。今日明日死んでしまうかもしれない。久しく忘れていたその事実。


 そうだ。来るものは来るんだ。終わりは、誰のもとにも来るんだ。


 でも、だからって、何も今じゃなくていいじゃないか。こんな早くじゃなくていいじゃないか。なにも両原のもとにじゃなくても、いいじゃないか。なんで両原がそんな目に遭わなきゃいけないんだ。なんであの両原が。あれだけの才能を持っていて、あれだけ毎日必死に生きてるのに、がんばってるのに。なのになんでよりにもよって両原が、そんな目に遭わなきゃいけないんだ。そんな不条理、不平等、あっていいわけないじゃないか。


 手代木は頭を抱える。自分にできることなど何一つない。自分では、運命も世界も何一つ変えられない。自分の漫画を描くことすらできない。


 すべての先に終わりが待っているなら、全部無意味じゃないか。どうせ明日全てが終わってしまうなら全部無駄じゃないか。そんな不条理の中で、漫画を描くことになんの意味があるんだ?


 わからない。何もわからない。その問いに答えがあるとも思えない。


 答えなど、自分で出す他なかった。



     *



 翌日も、両原は学校に来なかった。その日から両原は学校に来なくなった。それはある意味一つの答えだった。


 そうなのか。本当にそうなのか。そう、なってしまったのか。わからない。まだ何もわからない。けれども、手代木はその不安に押しつぶされそうだった。


 部室にはもう誰も来なくなっていた。あの日から豊葦も姿を見せていない。豊葦もまた数日休んでいた。聞くことは怖かった。答えを知ることは怖かった。けれども知らないことには先に進めない。何もすることはできない。


 数日後、豊葦が学校にやってきた。いてもたってもいられず手代木は休み時間に豊葦の元へと向かった。


「豊葦さん、久しぶり」


「うん、久しぶり。ごめんねしばらく休んで。何も連絡しないで。手代木くんも心配したよね」


「いや、それはもうしかたないっていうか、俺のことなんかどうでもいいいし」


「そんなことないよ。仲間なんだし」


「ありがとう……それで、あいつは」


「うん……まあ、自分で聞いたほうがいいと思うよ。別に口止めはされてないけど、どこまで、何を話すかも長ちゃんが自分で決めることだろうし。今日も長ちゃんの家行くからさ、手代木も来ない?」


「え、行っていいの?」


「いいでしょ多分。一応長ちゃんに聞いとくけど」


「そっか……わかった」



 放課後、手代木は豊葦に連れられ両原の家に向かった。手代木にとって初めての両原の自宅だった。両原の家はこの盆地の田舎にありふれた普通の一軒家だった。違う点と言えば、入り口からスロープがあること。手すりがあること。入ってすぐの広い玄関も同様。それを見ただけで手代木は「車椅子」の存在がこの家にとっては重要であることがわかった。


 豊葦は、当たり前のように家の鍵を開けて中に入った。


「豊葦でーす。おじゃましまーす」


「え、豊葦鍵持ってるの?」


「うん。もう合鍵持ってる関係。家族公認っていうか家族ぐるみだしね」


 豊葦はそう言って慣れた様子で中に入る。すると中年の女性が顔を見せた。


「あら優子ちゃんいらっしゃい」


「鈴木さんこんにちはー。今日はお客さんも一緒です。文芸部の仲間の手代木くん」


「あー彼が。男の子が来るのは珍しいわねー。初めて?」


「長ちゃんも男子の友達とか多分初めてですもんねー」


 豊葦はそう言い、鈴木という女性が出てきた部屋の中を覗く。


「メイさんこにちはー。優子でーす。今日もおじゃましまーす」


 豊葦はそう言い中の誰かに手を振る。手代木が隙間から覗くと、見えたのはフレームなどがついた「介護ベッド」のようなものであった。そこに横になっている人物の顔は、見えなかった。


「じゃあ行こっか」


 豊葦はそう言い二階に上がる。手代木は例の部屋から視線をそらし豊葦についていく。豊葦が入った部屋の中に、両原はいた。


「長ちゃん来たよー」


「いらっしゃい」


 両原は机に向かったままそう答える。その姿は、描き続けたまますべての受け答えをする彼女の背中はある意味見慣れた光景だった。彼女はあまりにも普通で、今まで通りで、手代木は少し拍子抜けする。


「手代木くんも連れてきたよー」


「そう。いらっしゃい」


「ああ、うん……お邪魔します」


「それじゃあ私はさっそくやってくね」


「うん、お願い」


 豊葦はカバンを置くとすぐに室内に置かれたパソコンの前に向かう。それもまたある意味見慣れた光景だった。両原がひたすら描き、豊葦がそれをパソコンに取り込み作業をする。その、あまりにも変わらぬ光景。二人の姿は、そこで行われていることは、何も変わらなかった。


「長ちゃん調子はどう?」


「よくない。まーなんとかする。どうせ全部慣れだし、体に合わせるだけだし」


「そっかー。なんかあったら言ってね」


 簡素な、短い会話。その様子も、何ら変わらない。まるで世界に変化など何一つ起きなかったかのような様子。


「手代木くんも座って好きに机使って作業していいよ。私の部屋じゃないのに私が言うのもなんだけどさ」


 と豊葦が言う。


「ああ、うん……いや、その前にっていうか……え、両原お前大丈夫なの?」


「何が?」


 と両原は振り向きもせず、机に向かい手を動かしたまま答える。


「何がって、体というか、手……病院行ったんだろ?」


「まあね。多分あんたの知りたいこと、全部教えてあげてもいいけど、逆にあんたはほんとに聞きたい?」


 両原は手を動かしたまま言う。


「……ああ。お前さえよければ」


「こっちは別にね。ただの事実だし。まあ悪いけどこのまま話すから。最初からこうだったけど、いつも通り昔通り、描いたまま」


 両原は背中を向けたまま、そう答える。


「で、何から聞きたいの?」


「……そりゃ全部だけど、まずはお前の体のことっていうか……」


「病院行ってきた。同じ病気だって。例の病気。徐々に体が動かなくなって最後は死ぬやつ。それが始まった。それだけの話」


 予想はしていた、その言葉。けれどもあまりにも淡々と告げられた事実。手代木は、どう答えればいいかわからなかった。


「手から、腕から来てる。まあまだ動くけど、でも徐々に動かなくなっていく。わかってたこと。それだけの話」


「……いや、そんな、だったら描いてていいのかよお前」


「逆に他に何するの? 描かないでさ。描けなくなるのに、他に何するの?」


「……わからないけど、治療とか」


「それはするでしょ一応。まあまだ治療法らしい治療法は確立されてないけど。多少は進行遅らせるために抗う程度じゃない? しない気はないけど別に一日中それやってるわけじゃないし。描けなくなるのが、期限がわかったんだから描くだけでしょ。本当にもう間に合わないかもしれないんだから」


「……そう、かもしれないけど……」


「だから私学校やめるから」


「え?」


「行く意味ないでしょもう。病気になること、というかもなってるんだけど、動かなくなることわかったんだし。行く意味ないでしょもう。時間の無駄だし。そんなことやってる暇ないし」


「……それは、そうかもしれないけど……」


「だから別に何も変わらない。やることは一緒。ただ描くだけ。まあ今までより急ぐし、今まで以上にこれだけだけどね。どれくらいの速度で進行するかもわからないし。だからまあ、別に何も心配することはないから。今まで通りで何も変わらないし。学校には行かない、教室にも文芸部にも私は現れないってだけで。今までやってたことをこの部屋で、この家でやるってだけ。別に何も変わらないから」


「……変わりはするだろ、それは」


「あんたにとってはそうかもね。別にうちくる分には構わないし。ただほんともう時間ないから、悪いけど今までみたいにあんたの漫画読んだり何か言ったりすることはできないししないから。そこだけはほんと悪いけどよろしくね。これからはあんた一人でがんばって」


「……そんなことはどうでもいいよ。俺のことなんかは。それよりお前のことだろ。それは、その病気は、ほんとに治せないのかよ。良くならないのかよ? 今は医療だってすごく発達してんだろ?」


「……あんたが救われたいのも安心したいのもわかるけど、でも言っとく。現状この病気は治らない。良くもならない。最後は絶対死ぬ。多少なりとも抗って遅らせるくらいはできるかもしれないけど、でも徐々に進んで、動かなくなって、それで死ぬ。それは変わらない。もちろんこの数年で劇的に何かが変わる可能性もゼロじゃないけど、そんな他人に賭けてられないからねこっちも。そうなると思って行動するだけだし」


「……それは、ほんとにもう、変えられないのか?」


「……こっちもさ、もうそういうの聞いてられないし、そんなの何回も通った道だから、あんたの気持ちとか考慮してらんないしはっきり言うけど、これで私の母親は死んでるの。もう死んでる。同じ病気で」


 それは、手代木が聞く初めての事実だった。


「さっきあんたも鈴木さんに会ったんでしょ? 声ちょっと聞こえたけど」


「ああ。あの女の人」


「当たり前だけど母親じゃないから。ヘルパーさん。姉には会った?」


「姉?」


「会ってないのね。でも多分優子が声かけてたでしょ。鈴木さんが看てる、あの部屋。あそこに姉がいる。母親と同じ病気で、私と同じ病気で、体が動かせなくなって寝てる。まあ一応車椅子に乗って移動とかはできるしするけど、でももうほとんど動かない。姉は早かったなあ……発症も進行も。まあ発症は私のほうが早いんだけどさ。なんだろうねこれ。どんどん早くなってんの。おばあちゃんにお母さんに姉に私って。どんどん早くなってる。ほんと、意地が悪いっていうかさ」


 そう話す両原の表情は、見えなかった。


「あんた知ってるでしょ。文芸部の備品。パソコンだのエアコンだのOGが寄付したって。あれうちの姉」


「え? そうだったの?」


「そ。姉も漫画描いてたから。一応漫画家だった。まあ一瞬だったけどね。同じ学校で、姉も文芸部出身だったから。それで自分のお古とか寄付したりさ。まーお人好しだし、そんなめちゃくちゃ売れてたわけでもないのに。お金だってたいしてあるわけでもなかったのに」


 両原はその間も、一切手は止めなかった。否、止められなかったのかもしれない。止まることなど、運命に許されていなかったのかもしれない。


「姉は結構歳離れてるから。十個上。小さい頃から漫画描いてたらしくて、高校の時には賞も取って。それで卒業してすぐ上京してアシスタントやって、二十歳には連載デビューした。でも、漫画家になってから三年も持たなかった。発症した。体が、手も動かせなくなった。当然漫画なんか描けなくなった。それで今ここ。実家にいる。ヘルパーさんに見てもらってる。もう体は満足に動かせない。会話もできない。知ってるか知らないけど、視線を動かしてタイピングする機械みたいなのがあるの。それで意思疎通してる。呼吸もちゃんとできないから色々管で繋がされてなんとか機械に生かされてる。食事も一緒。帰る時に見てったら? あれが現実だから。未来の私だから。私はそれを毎日見てるから。だから知ってるだけ。単純に事実として。お母さんのその姿だって、死ぬとこだって見てきた。だから、ただの事実なの全部。私にとっては。ただの事実。日常。生活。目に見える形での自分の未来」


 両原はそう言い、一つ息をついた。


「ほんと、お姉ちゃんは速かったなあ……まあ、私が昔から漫画描いてたのも姉の影響。生まれた時から姉が目の前で描いてたから。全部見てきた。色々教わった。私が私なのは、昔からずっと描き続けてきたのは姉がいたから。姉のおかげ。全部姉からもらったもの。命の使い方だってそう。急ぐのも、全部お母さんとお姉ちゃんからもらったもの。嫌でも突きつけられたもの。だったらそれ以外ないでしょ。逃れようがないでしょ。自分の運命が目の前に目に見える形で常にあるんだから」


 両原はそう言い、手を止め自分の手を見つめる。


「ほんとこの手、使い物にならないんだから……今まで散々酷使しといてなんだけどさ」


 両原は苦々しげにそう言う。豊葦が立ち上がり、その原稿を受取る。その原稿を、手代木はちらっと見る。その一瞬でも、手代木にはわかった。わかってしまった。誰よりも、無論両原本人と豊葦には敵わなかったが、それを除けばおそらく誰よりも毎日のように必死に両原の漫画を見てきからこそわかる。ほんの一瞬、表面だけ見ればわからないかもしれないが、少しでも注意深く見れば気づく。


 絵が違う。線が違う。それは僅かなもの。些細なもの。それでも、その線は確かに変わっていた。あの完璧な線ではない。震え。止まらない。引ききれない。完璧な線を、辿れていない。弱々しい。この短い期間でも、違いは確かに表れてしまっていた。その線が、何よりも手代木に事実を突きつけた。両原はもう、これまでの両原ではない。その手は、腕は、あの完璧な線を、漫画を生み出し続けていたそれではない。


 手代木は、愕然とした。絶望。それを覚えずにはいられないもの。しかし当の本人は一切気にせず、止まることなく描き続けていた。


「見ればわかるでしょ。間に合わなくなる。だからこれまで以上に急がなくちゃいけないの。まあ、それだけ。それが事実。知りたいことは全部わかった?」


「……一応」


「そう。あんたはさ、感謝しなよ。今自分の手が自分の思い通りに動くことに。でも明日もそうである保証なんてどこにもないんだから。あんたの方が先に描けなくなることだってありえるんだから。たとえ五体満足で体が無事だろうと、心が折れて描けなくなることだってあるんだし」


 両原はそう言って、再び描き始める。


「だからあんただって一緒。私とあんたに違いなんて何もない。あんたも私と一緒。今を、描ける今を、大事にしなよ。描ける事実を。そこには誰にだって違いなんてないんだから」


 それは、当たり前の事実。しかし今の両原が言うような言葉ではない。その現実に直面している両原が、他人にかけられるような言葉ではない。ひるがえって、自分は、何を……


「一応、聞いとくけどさ……それって、というかこれって、夏井さんにはその、言ってないよな」


「言ってない。言う必要もないでしょ。そもそも病気のことだってあの人は知らないし。別に隠してるとかじゃないけど聞かれなかったから。わざわざ言う必要もないでしょ。あの人も今は自分のことで忙しいんだし。大事な時なんだから邪魔しちゃ悪いし。それ言ったらあんただって同じだけどさ、でもあんたは自分で聞いてきたから、まあ自分の責任でね」


「それは、もちろんそうだけど……」


「ならまあ、自分の漫画がんばってね。これからは一人で。本来はそれが当たり前なんだから。別にここでやってってもいいけどさ」


「そっか……今日は、帰るよ。邪魔しちゃ悪いし」


「そう。じゃ」


「うん……たまに、まあ正直毎日の可能性だってあるけど、来てもいいか?」


「いいけど何しに?」


 それはもちろん心配で、できるものなら両原を支えたくて、という言葉も浮かぶ。それも正しかったが、しかしそんなどこか恩着せがましいことは言えない。それに、もっと大きな理由があることもわかっている。


「正直、寂しいからだと思う。みんないなくなったら、もうあの部室には俺一人だから」


「そう……こっちが新しい部室か」


 両原はそう言い、ふっと笑った。


「それだといよいよほんとに文芸部廃部なるね」


「かもしんないけど……いや、これも正直言うけどさ、なんかできることがあれば、手伝いたいんだよ。力になりたいんだよ俺も。そりゃ俺にできることなんて何もないかもしれないけど、でもいないよりは多分、マシかもしれないし」


「いるだけで空間占拠するでしょ」


「……縮こまってっから」


「……まあ別にいいけどね。なんでもすんのよね。雑用でも買い出しでもなんでも」


「もちろん」


「じゃあいいけど、あんたももの好きだね」


「そんなことないだろ……普通だろ多分。友達で、仲間で、弟子なんだから」


 手代木はそう言い、立ち上がった。


「俺も、俺にできることを考えて、探しとくし、増やしとくよ」


「そんなんより自分の漫画やんなよ。それがあんたのできることだし今すべきことでしょ」


「そうだし、やるけど、でもそれも全部俺が決めることだからな。じゃあほんと、邪魔したな。多分明日も来るよ。顔見るだけでも、毎日でも、会いに来るよ」


「それは自分が安心するため? 逆効果だと思うけど」


「それも、自分が安心するためも、あるよ多分。でもそれだけじゃなくてさ、そうじゃなくて……こう、あんだろ。心配だし、それだけじゃなくてもっとこう……お前だって逆の立場なら多分そうじゃん。俺、の場合はさすがにないだろうけどさ、でもたとえば豊葦は熱出して、寝込んでたりなんかしたら、お前だって見舞いに行くだろ。顔見に行くだろ。心配だし、大事だから。そりゃ熱だと風邪うつるとか色々あるけど、でもそういう理屈じゃなくて、気持ちはあんじゃん」


「そうだね……それが感情だから」


「そうだろ。感情じゃねえか。それがあっから生きてけんだし、漫画描くんだし、漫画読むんじゃねえか。それは変わんねえだろお前だって」


 手代木はそう言い、ドアに手をかけた。


「じゃあ、またな。明日また、お互い元気な姿で会おうぜ。お前が元気でいてくれるようにって、俺は祈って眠るからさ」


「……わかってると思うけど、全部平等だからね。死も不幸もすべて平等。私だけじゃなくてあんただって、無事にここに来なきゃいけないんだから」


「わかってるよ。約束する。努力する。別に祈んなくてもいいけど、俺はそういうふうに生きてみせるよ」


 手代木はそう言い、ドアを閉めた。


 一階に降りる。両原の姉がいるという部屋から、鈴木というヘルパーが出てきた。


「あら、お帰り?」


「あ、はい……その、長さんからもお話聞きましたけど、その、お姉さんに挨拶だけでも、大丈夫でしょうか」


「もちろん。どうぞどうぞ」


 鈴木はそう言ってドアを大きく開ける。中には大きな介護ベッド。そこに横たわる、小さな体。小さな女性。


 その体には、無数の管が繋がれている。何に使われているかわからない機械の数々。そこから伸びる管。それが体に、鼻の穴に、繋がれている。


 手代木は、直視できなかった。直視していいとも思えなかった。わからない。手代木にとってあまりにも「キツすぎる」現実を前に、どう振る舞えばいいのか、わからない。思いつかない。それでも、目をそらすことだけは礼儀に反するように思えた。どんな形であれ、彼女はそこに生きている。まだ生きている。彼女の生きる姿が、これなのだと。


 それを直視することこそが、彼女の命に対する礼儀なのだと。


 両原の姉は、メガネをかけていた。その顔は痩せこけており、まだ二十代には見えない。この病気になる前彼女がどのような姿だったかは、今の姿からは想像もつかなかった。


「――あの、はじめまして。手代木共一と申します。その、長さんの友だちというか、同じ文芸部の仲間で、一緒に漫画描いてます、長さんには色々と、漫画のことを教わりました。それとその、文芸部のあの備品、パソコンとかエアコンとか、ああいうのもお姉さんの寄付だと伺いました。ほんとうにそれには、特にクーラーには助けられましたし、ほんとお世話になったので、ありがとうございました」


 手代木はそう言い、頭を下げる。返事はない。おそらく、もう喋れないのかもしれない。両原がそんなことを言っていたのを思い出す。そもそも自分の声が聞こえているのかもわからない。帰ってもいいのか、そう考えていた時、何か電子音がなった。音の方を見るとそこにはディスプレイがあり、ゆっくりとだったが、一文字ずつ、言葉が表示されていく。


「つかさ を おねがい」


 たった八文字。たった八文字のその言葉。この、極限化に、死が迫る中においてもなお、妹のことを想う。妹のことを託す。


 涙が、溢れてきた。溢れる涙を止められない。何故自分が泣いているのかもわからない。けれども、泣く以外の形でその場に存在することは不可能だった。


 何を泣いてるんだ俺は。俺は、泣く立場なんかにないだろ。泣いてどうするんだ。泣いたってどうしようもないだろ。泣いたところで何にもならないだろ。


 俺がこの気高い人間に対してできることは、泣くことじゃないだろ。


 手代木は、涙を拭った。


「はい。任せてください。長さんのことは、両原のことは、俺たちに任せてください。誓います。約束します。あいつには、俺たちがついています」


 手代木はそう言い、己の胸を叩いた。ドンドンと、力強く叩いた。その言葉は、己の魂に対する誓いだった。


 両原の姉の、両原命(めい)の表情に変化はない。もう顔も動かせないのかもしれない。しかしその口角が、確かに緩んだ気がした。白い歯が、光った気がした。


「いけ しょうねん」


 ディスプレイに表示された、たったそれだけの言葉。そういえば、この人も漫画家だったのだ。漫画を描いていたのだ。


 そりゃ現実だろうと、漫画な言葉を吐くだろう。


 手代木は、ハッと笑った。


「はい、行きます」


 もう涙は出ない。泣いてなどいられない。顔を上げ、笑ってみせる。誓って見せる。彼女に、両原の姉に、両原命に、見せてみせる。たとえあなたがいなくなろうと、意志は俺たちが受け継ぐと。あなたがいなくなったあとも、世界に希望は残り続けると。理想は残り続けると。


 俺たちが、それを、漫画を描き続け証明してみせると。


 頼まれた。託された。受け取った。両原のことは、任せておけ。漫画のことも、任せておけ。全部全部、やってみせる。この世界は生きるに値したと、漫画は命を使うに値したと、その事実を、証明してみせる。


 手代木は家を飛び出た。走った。走った。ひたすら走って家に向かう。そうして部屋に飛び込み、机に向かう。


 漫画。漫画だ。俺が描くべき漫画。俺が描かなければいけない漫画。俺が描かなければ、この世に存在しない漫画。


 両原のことを。姉のことを。あの姉妹のことを。その生き様を。そこから受け取った何かを。あの命を。あの人生を。その、漫画を。


 物語にしろ。物語にするんだ。そのまま描くんじゃない。俺がそこに見出した何かを、理想を、言葉を、言いたいことを、伝えたいことを、この世界に、残したいものを。


 それを形に、漫画にするんだ。


 紙と鉛筆。ただそれだけ。そこから始まる漫画。


 それこそが、世界に繋がる出発点だった。




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