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手代木が遅々とした歩みを続ける間も、両原は一人はるか先へと進んでいた。まさにトントン拍子といった具合に進んでいく彼女の連載の話。連載ってそんな簡単に決まるのか、そんな簡単に進むのか、と手代木は信じがたかったが、とはいえ両原の漫画を大量に読んでる以上それも当然だという思いもある。あの漫画にはそれだけの力がある。すべてを、みなを、大人を動かすだけの力がある。強烈な金の匂いだってある。人々がそのために動くのも必然に思えたが、とはいえ他人事ながらその速度についていくことはできなかった。そしてなにより、とうの両原があまりにも普通すぎた。あまりにもいつも通り過ぎた。それが逆に拍子抜け、というより真実味を薄めていた。本当に連載なんてなるのか? これがほんとに連載前の人間か? 何も思わないのか? なんでそんな普通なの? ほんとにやるの? と。しかしそれは相手方との交渉のほとんどを豊葦に任せているからでもあった。自分がすることは、できることは、したいことは、初めから決まっている。初めから一つしかない。漫画を描く。ただそれだけ。それはこれまでと何も変わらない。だから彼女が変わらないのも当たり前だった。
一方の手代木は夏の間もひたすらに漫画だけで駆け抜けた。毎日勉強もした上で、十時間は漫画に当てた。絵の練習に漫画の制作どちらもやった。変わった点と言えば桧原の絵の模写をより徹底して繰り返したことであった。考えてみればわかることであった。一番の手本が目の前にいる。その絵はどこまでも完璧で、なにより速い。その絵はある意味最低限度の必要な線のみで構成されている。もちろんそれは幼少期からの絶え間ない努力の成果によって身についたものであったが、それがどこまでも手代木にとって「正解」であり「理想」であることには変わりなかった。絵の基礎が徹底されている。絵の基本のすべてがそこにある。ならばこの絵を完璧に真似できるようになれば、自分は少しでも両原に近づけるのではないかと。いわゆる守破離、個性などというものはその基礎を徹底して染み込ませてからでいい。というか読みまくってるうちにほんとに両原の漫画のファンになったし、その絵の虜にもなったしこういう絵が描きたいと思うようになった、ということもあったが。
ともかくとして、手代木が入学後、両原との出会い後に掲げた「一年、最低でも半年は徹底して絵の練習をする」という「半年」が迫っていた。
夏休み明けに両原を待っていたのは、夏井も同じであった。
「どうよこれ! 夏休みの間に短編一本描いてきたんだけど!」
夏井はそう言い、いつか見た光景のように紙の束を両原の横に置く。
「そうですか。速いですね」
「『速いですね』じゃないでしょーが。速さならそっちの方が上でしょ」
「でもデジタルだろうと仕上げまでして一ヶ月くらいなら速いんじゃないですかね。勉強もしてたでしょうし」
「……ぶっちゃけあんましてない……まーまだ二年生だし!? 受験はまだ先出しなんとかなるんじゃない!?」
「めっちゃ自分でも不安な感じで言ってますねそれ……」
「さすがに夏休み中漫画しかしてなかったら明けテストとか怖いからね……」
「大丈夫っすよ俺のほうが絶対酷いんで」
「へえ。あんたも漫画描いてたの新人くん」
「俺ももー新人じゃないですけど。なんだかんだ夏井さん二回目なだけで五ヶ月くらいは文芸部いますし。夏井さんよりいるんで」
「だろうけどねー。君も夏休み中漫画描いてたの?」
「そっすね。絵の練習メインですけど」
「一日何時間くらい?」
「……親の用事とかない時は、毎日十二時間はかならず確保するようにしてまし」
「あ、そう。正直同じくらいだから張り合えもしないわ……それでどーだったのよ成果。手代木っていったっけ。夏休みの間にどんなの描いた? 部誌に載せるのとか?」
「あ、いえ、そういう載せたりどうこうの完成させった漫画はまだですね。まだ絵が全然なんでひたすら練習してます」
「あーそうなんだ。じゃあ最悪その絵を部誌に乗せるしかないのか。どんな絵よ。見せてくれない?」
「今手元にあるのまさに練習のだけなんですけどいいですかね。基本ひたすら模写ですけど」
手代木はそう言い紙を見せる。
「へぇ……元がどうだか知らないけどうまくない? 普通に」
「そうですか?」
「うん、まあ。時間どれくらいで描けてるのかはわからないけど……毎日十二時間やってたっていってたもんね……その前も三ヶ月とか……まあそれだけ練習すればこれだけうまくなるか。これだけ描けるなら漫画描いていいんじゃない? 書いたりしてないの?」
「細々とは。練習の合間息抜きですね。でもそれも全部練習って完璧目指して描いてるんであんま進ままないっす」
「じゃあほんと部誌はあんまページ回せないのね。ていうか私の漫画! 両原感想!」
「二人が喋ってる間に読み終えましたよ」
「はや! で、どうよ」
「単純に絵とか画力だけで言えば前回からそこまで間が空いてないですからね。それでも全体的に多少は。デジタルも少しずつわかってきたっていうかあってきたんじゃないですかね。線は前より良いですし。すべてのコマを丁寧にやろうって意思は伝わりますたよ。仕上げまでちゃんとって。ただストーリーもキャラもネームももう少し良くしないとじゃないですかね。夏井さんも画力よりどっちかっていうとそっちなんで。面白いストーリーとかキャラとかプロットとかが簡単に思い浮かばないならじっくり考えて練ったほうがいいですよ。脚本術とかそういうがっつり勉強して。その辺が全体的に弱いんでまあ賞とかはギリギリ引っかることもあるかないかくらいで」
「またボロクソじゃん!」
「ボロクソですかね。普通にいいとこはよくなってますけど、全体的に少しずつは。ストーリーもまとまってはいましたよ。まとまってただけで波とかそういうのが足りないってことで」
「……まー賞に回すなり部誌に回すなりするわよ。というかどっちにも回していいよねこれ別に? こんな部誌に同時に載せるのまでは規約で禁止されてないはずだし」
「それは応募要項見てみるしかなさそうですねー」
と豊葦が笑って答える。
「そうだね。で、両原先生の夏休みは? やっぱり毎日漫画オンリー?」
「そうですね。一日十六時間くらいですかね」
「は? ……いやそれ物理的にできんの? 何時間睡眠?」
「六時間ですね。四時間と一時間二回で」
「意味わかんねー……どういうスケジュールよそれ。てかそれ漫画以外は二時間しかないじゃん」
「食事と風呂ですね」
「……いや、聞いてるだけでも意味不明だし不可能でしょ……それで夏休みに何ページ描いたのよ」
「数えてないですね。優子なページ?」
「多分一日三十前後で千いくかどうかくらい?」
「……千って週刊連載一年分じゃん……」
「ていっても私はネームも仕上げもしてないんで」
「だからっていってもマジで漫画以外何もしてないじゃん」
「漫画描きながら漫画読んだり映画見たりはしましたね」
「それは違うしそんなことまでできんのかい……そうじゃなくて人と会ったりさ、人と話したりとかそういう当たり前のことはゼロ? マジで家でずっと一人?」
「一応話はしましたね。会ってないですけど。打ち合わせがあったんで」
「打ち合わせ?」
「チャンプの編集の人とです」
「――え、ちょっと待って。チャンプ、『週刊少年チャンプ』……?」
「そうですね」
「……その編集と、話したの……?」
「はい」
「……何の話を……?」
「連載とか今後の活動についてですかね」
「……連載、すんの……?」
「まだ決定じゃないですし可能かの判断もされてませんけど」
「……え、いや、だってあんたまだ高一じゃん。どうすんの?」
「一応予定ではウェブに上げてるのとかそのへんの貯金つかって、あのネーム兼下絵をそのまま使って別のプロの人にペン入れ以降の仕上げをデジタルでしてもらいます。なのでこちらは今まで通り描くだけなので特には問題ないですね」
「それならまあ、週刊でもか……? いやでも、だからって、ていうか……え、そもそもなんで?」
「賞に送ったのとウェブに上げたの見てくださった編集者さんから連絡がきましてー」
と豊葦が言う。
「なのでどうなるかはわかりませんけど連載始まって続けられて収入安定したら学校も多分辞めますね」
「え、いや……マジで?」
「マジです。お金あって生活できたら学校も時間の無駄なだけですし」
そうなのだろう。そうなのかもしれないが、その前に。
――マジか……いや、正直それも不思議じゃないっていうか、それも当然でしょとしか思えないのがこいつの漫画だけど、マジかー……マジで来るかーこの歳で……一切受賞経験もなく……? チャンプってそういうことすんの? いやでも、表記どうなるか不明だけど原作は両原で、作画が両原とそのプロの人両名で、多分そっちはチャンプの賞とか出身のバリバリ漫画描ける人で、とかならいいのか? 普通にあるのか? いや、だとしてもこの歳で、普通高校生にやらせる連載? さすがに無理じゃない? そこまでして? まあそこまでのなんだけど……
そう、そこまでの存在。わかっていたが、世界が、あの『チャンプ』までもが認める、ほんとうの意味での才能。わかっていた。自分とはあまりにも違う地平にいると。対等なライバル関係など、初めからありえないのだと。自分は、その足元にも及んでいなかったのだと。わかっていたが、子供の意地で、自尊心で、認めたくなくて、認められなくて……
でも、もう連載となってしまったら。プロになってしまったら。もう完全に、そんな相手とは違う……はるか雲の上の存在……
それでも、その雲の上がここにいるなら、そしてそれがいずれここからいなくなるというなら。
自分のすることは、一つしかないじゃない。
「――両原、私明日から毎日来るから」
「そうですか」
「というか両腹がいるところには常にいる。もう考え変えた。もう挑むとかそういう次元じゃない。でも挑む。近づくために。あんたから、すべてを吸収する。盗む。それで絶対、うまくなって、面白いの描いて、それで絶対私も漫画家になるから。そしたらもう対等だから。だから待ってなさいよ。たとえあんたが学校辞めたって、いつかそこまで追いついてみせるから。だからあんたも、死ぬ気で私に教えてよね。だからよろしくお願いします!」
夏井はそう言って頭を下げる。
「別にいいですけど教えるのはそんなできないんで。盗むのは結構です。いくらでもしてください。あとだからの使い方ちょっとおかしくないですか?」
「偽らざる私の気持ち! というかあんたそんな普通のつっこみもできたんだ」
「さすがに気にはなったんで」
「へえ……まあとにかく! あんたの漫画も絵も全部研究して吸収するからね! ほんとにいなくなんのならその前に盗めるだけ盗んどかないと!」
その、あまりにも真っすぐで正当な盗人宣言。しかしそのなりふり構わずとも上を目指す、漫画家を目指す。漫画がうまくなりたい。それこそが夏井という人間の本性であり、真骨頂であった。それこそが、自分という人間なのだと。




