10
湯本は早速その「心当たり」の漫画家に連絡をした。
「もしもし、百音さん今大丈夫?」
『えーそりゃもう全然、暇なんで』
「今何してた?」
『ゲームしてました。暇なんで』
「そっか……ネームとかは、どんな感じ?」
『まぁ……描いてはいますけど正直っていいますか』
と百音と呼ばれた女性、鹿又百音は答える。彼女は湯本が担当する漫画家であり、「桃野傘」というペンネームで連載をしていた。しかしその連載が短命で終了。それもこれで都合二度目。ある意味では「ツーアウト」状態の漫画家であった。
「そっか……あのさ、今日はちょっと、提案っていうか百音さんに話があって電話したんだけど」
『そうなんですか? まー世間話でも進捗確認でもなんでも連絡もらえるだけありがたいですけど』
「うん。それでさ、百音さん、一応原作つきで作画やってみない?」
『原作つきですか?』
「うん。百音さんが自分でどう考えてるかはわからないけど、この二回自作の漫画でどちらも連載が短期で終わっちゃったから。もちろん百音さんに話を作る能力がないとか思ってるわけではないしそう言うつもりもないけど、でもやっぱり収入的な厳しさもあるじゃない。百音さんの絵は、漫画表現は間違いなく一級だからね。それを活かすためにも原作つきでどうかって思ったんだけど」
『そうですか……まあそういう話は遠からずあるとは思ってましたけど……正直自分でも行き詰まってるっていうか、自分でも何が面白いのかわからなくなってますし、話考えるのも疲れてた部分はありますね……もうアシスタントとかでやってくしかないのかなーとかも思ってたんで』
「そっか。とりあえず前向きってことでいいかな」
『仕事をもらえるならそりゃもう、なんでも飛びつくしかないですし』
「そっか……それで、これはちょっと特殊な話なんだけど、原作っていってもね、もう下絵まではあるの」
『てことは絵が下手かなんかなんですか?』
「いや、めちゃくちゃうまい。描ける人」
『……じゃあなんか知らないけどペン入れとか仕上げだけはできないと』
「というより『しない』だけどね。まあ色々事情があってそこまでしてる時間がないって。だから作画って言っても基本はその絵をなぞる、もちろんペン入れがなぞるだけなんかじゃないことはよくわかってるけど、とりあえずそのほぼ完成に近い絵のままペン入れして、トーンや背景だけやる、って感じ」
『……なんかまたちょっと変わった話ですね』
「うん。事情については追々話すけど、とりあえずその子の漫画読まないと何も始まらないと思うからさ。やってもらいたいのは彼女、まあ彼女って言ったけど女の子でね、まだ高一で」
『高一っすか? はーそれは、そりゃ学校あるからペン入れまでしてる時間っていうかそもそもの連載なんてしてる時間ないですもんね。それ週刊ですか?』
「予定では」
『いや、それそもそも下絵までですら無理すぎません? 間に合います?』
「貯金が大量にあるから。それなんだけど、彼女がウェブに載せてる漫画読んでほしいんだ。すでに人気で、できればそれをそのまま連載したい。で、読んでもらえばわかるけど、それはもうほんとに完成品で、めちゃくちゃ面白くて、とにかく読んでから考えて、決めてほしいんだ」
『はぁ……そりゃいいですけど。読まないとこちらも決められないですし』
そうして絶賛「無職」中の鹿又は、有り余る時間で両原の漫画を、「これが描けたら死んでもいい」の漫画を読み始めるのであった。そして無職がゆえに、当然に、寝食も忘れ徹夜して。
*
「七絵さん、あれマジで高一なんすか?」
翌日、「打ち合わせ」のため家にやってきた湯本に対する鹿又の第一声はそれであった。
「うん、ほんと。というか寝た? 大丈夫?」
「徹夜しましたけど七絵さん来る前に少し寝たんで一応大丈夫です」
「そっか。で、どうだった?」
「どうもこうもないですよ。意味分かんないっす。高一とか関係なく新人、というかデビュー前の中じゃダントツ一番でしょ。というかプロじゃないっすかもう」
「そうなの。彼女はプロ。もう完全に。まあ仕事としてできるというか、仕事をする、仕事をできるかっていう点ではかなりプロとしては怪しい部分はあるけど、でも実力はもう間違いなくプロ」
「そっすね……まあでも、七絵さんが言ってることはわかりました。なぞるだけだって。あれはもうそういう原稿ですもんね。それと貯金がめちゃくちゃあるのも」
「あそこにさらにプラス五十話以上でしかも毎日十ページは描き続けてるらしい」
「は? なんなんすかそれ? マジどんなバケモンっすか? というか学校行ってるんですよね?」
「行ってるらしいけど、下手すりゃ授業中も描いてるのかもね……まあ今は夏休みだけど」
「とんでもない生産能力ですね……」
「しかも他にもまだ今まで書いた漫画が一万枚、一万ページくらいはあるらしくて……」
「……高一なんですよね? まだ十五とかですよね?」
「うん。だから正直眉唾だったけど、でもこれまで描いたもののデータとかも送ってもらったけどその量見るとあながち嘘でもないかなって。しかもそれも全部めちゃくちゃ面白いしうまいの。よかったら読んでよ」
「まあ時間あったら読みますけど……いやでも、能力に関しちゃあれ見ただけでもう十分なんで」
「だよね。それでどう? やってみない? 百音さんの画力なら、腕ならあれを完璧な形に仕上げることもできるはずだから。私はあらゆる意味で百音さんが適任だと思ってる」
「……まあ、正直やらせてもらえるならぜひやりたいですし、あれなら絶対売れるんで金銭的に考えてももうやる以外ないって感じですけど。でも本人はいいんですか? 普通自分でペン入れまではしたいですよね。いくら高校生で時間ないって言っても月刊なりなんなりで。まー月刊でも学校と掛け持ちじゃキツいと思いますけど。じゃなくても卒業するまで待つとか」
「うん、その話なんだけどね……これは絶対、まだ他言無用でお願いしたいんだけどいいかな?」
「はぁ……そりゃこういう仕事ですし、言うなって言われたら言いませんし守りますけど」
「うん、ありがとう。彼女がね、時間ないっていうのはなにも学生、高校生だからってだけじゃないの。彼女は、ものすごく生き急いでる。いつだって間に合わなくなるかもしれないって。だからとにかく急いでて、だからペン入れする時間もない。そんな時間は無駄だしもったいないって。それで、なんでそんなに生き急いでるかって言うと――私も詳しいことはまだ知らないけど、彼女は体が動かなくなる可能性があるらしいの」
「……病気とかですか?」
「うん。遺伝らしくて、家族がそうだって。徐々に体が動かなくなっていって亡くなる病気だって。だから当然腕も動かせなくなるし、当然漫画も描けなくなる。遺伝で、自分は高確率で、というより絶対そうなると思って生きてて、だから毎日死ぬほど急いで漫画を描いてるって」
「そういうのですか……それはまあなんというか、若いのに大変だというか……でもあの歳であれだけの漫画が描ける理由はなんとなくわかった気はしますね。あの異常な熱量っていうか、生命力っていうか……けどそれめちゃくちゃ責任重大ですよね? あっちそれ知ってるんですか? 私のこともう話したっていうか」
「うん、話してある。それで作品も見てもらった。その上でだけど、問題ないと思う、うまいし、そもそも湯本さんがその人がベストだと思うなら任せるしあとは相手次第だ、って」
「そうですか……なんかでも、聞いてるとあんま自分の漫画に執着なさそうですね」
「かもね。執着とはちょっと違うけど、彼女の中ではさ、彼女にとって重要なのは、とにかく自分の中にある漫画を形にしとくことだけ。描けなくなったらもう自分の中にしかそれは存在しなくて、それは存在しないのと同じだからって。だからとにかく形にすることだけが全てで、だから急いでるしペン入れとかもしないし。正直連載にも、漫画家にも興味はないんだと思う。欲しいのはお金だけで、それも学校辞めて生活するためにってだけで」
「辞める気なんすか。それはまた、まあ事情は聞いたにせよほんとすさまじい生き急ぎですね……」
「うん。自分が同じ立場だったとしても同じようにできるとは思えないかな、私は」
「そうですね……」
鹿又は考える。それは今まで考えたことなどないこと。もし、自分が描けなくなったら。腕が、体が動けなくなって描けなくなったら。その未来が、わかっていたら。はたして自分は、どうするだろうか。
わからない。そんなことは想像もしたことがない。そんな覚悟で、漫画を描いたことなどない。未来は当たり前にあるものだと思いこんでいた。いや、思い込むことすらない。そんなことなど、何も考えずにここまで生きてきた。自分が死ぬなど。描けなくなるなど。これが最後、などと……
その事実を目の当たりにすると、寒気が走る。自分は、なんて適当に生きてきたのか。でもそんなこと普通考えない。考えられない。そんな中で漫画など描けない。そもそも自分は、同じ立場で漫画を描くことを選ぶだろうか? 選べるだろうか?
わからない。何も想像がつかない。あまりにも別の次元。でも、だからこそ、彼女はあんな漫画が描けるのだろう。覚悟が、環境が、運命があれだけの漫画を描かせるのだろう。その漫画に、自分が関わるということ。ペンを入れ、完成させること。そうして世に出す形に仕上げるということ。その、膨大な責任。
はたして自分がそんなことをしていいのか。自分にできるのか。自分で、いいのか。けれども同時に、誰かがそれをしなければならないということもよくわかる。この作品を、完成させた形で、より広く世に知らしめ多くの人に読んでもらえるようにしなければいけないことも、よくわかる。その使命感。おそらく湯本も抱いているはずのそれ。
誰かがやらなければ。そしてそのお鉢が自分に回ってきた。ならば、自分がしなければ。
いや、そんなこともどうでもいい。問題なのは自分がやりたいかどうか。自分は、やりたい。関わりたい。これを目の当たりにして、そのチャンスが自分のもとに巡ってきて、それを手放すだけの度胸が自分にあるか? やりたくないのか? 私がやらないで、誰がそれをやるんだ?
この「これが描けたら死んでもいい」という天才のその才を、世界に知らしめなくて、ほんとにいいのか?
いいわけがない。やらなければ。自分が、やらなければ。というよりやりたい。他の誰にもそんな大業を渡したくない。これほどの一世一代の大仕事を、他の誰かになんて渡したくない。
私がやる。私がやるんだ。やってやる。やってやろうじゃないか。それ以外に、答えなんてないだろ。
「――ほんとに、私がやっていいんですか?」
「私は百音さんにやってもらいたいし、両原さんも百音さんでいいって言ってる。もちろん編集長が、他の人たちが認めるかは別だけど、それは力で認めさせてやればいいだけだし。とりあえず描いてみよう。描いたもので判断してもらう以外に道なんてないんだしさ」
「そうですね……でもその前に、ちゃんとその作者に、両原さんには挨拶してもいいですかね。というより頼ませてください。私にやらせてくださいって」
「もちろん。ただまあ、結構遠くだから直接会うのは大変だからウェブでいいとは思うけど。それとも行く? 旅行がてら。時間とお金はかかるけどさ。私も一度はちゃんと会いに行かなきゃって思ってたし。あっちも高校生だしその事情で描くのでいっぱいって中でこっちまで呼び出すのもあれだから」
「そうですね、まあ一度は会わなきゃですけど、でもまあそれは連載が決まったらでもいい気もするんで。まだ不確定ですし。いや、でも実際決まったらそんな時間もないのかもしれないですけど」
「でもまあ日帰りで行って帰っては来れる距離だから。新幹線と電車で、まあかかって片道四時間?」
「それでも往復八時間って考えるとキツイっすよねー……私なんて基本インドアだから特に」
「そうだねー。今はほんとネットあるからいいよね。昔なんか遠方の作家のとこまで新幹線で原稿取りに行ってたとかいうし。けどそのくせ仕事減るどころか増えてるっぽいから意味分かんないけど」
「そうですねー。ていうかそれで思ったんですけど、普通に仕上げはデジタルでいいんですよね? 私デジタルですし。けどその子の原稿見てると下書きまでは鉛筆っぽいんでそれデータでもらってこっちで作業する、とかになりますかね?」
「そうだね。両原さん時間ないからいつでもどこでも描けるようにって紙に鉛筆みたいだし」
「ほんと徹底してますね……それやっぱ絶対授業中も描いてますって。そもそも進級大丈夫なんですかねそれ」
「……大丈夫であって、ほしい。じゃないと親御さんにも学校にも顔向けできないから」
それは高校生を担当するという編集者の切実な思いであった。




