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いつから漫画を描いていたのかを手代木共一は覚えていない。おそらく幼稚園から小学生低学年くらいの頃にはすでに漫画を描いていた。それはおそらく漫画と呼べるほどのものではなく絵にフキダシがついてセリフがあるようなものであったが、少なくともそこには何らかの物語があった。
一番古い記憶での漫画らしい漫画は自分の家に昔からいるぬいぐるみたちを主人公にしたものだった。よく見ていた漫画やアニメのようにぬいぐるみたちが冒険しバトルを行っていた。なんでそんなものを描いていたのかは覚えていない。楽しかったのかすらも覚えていない。けれども確かに描いていた。なんらかの衝動に駆られて。
小学生高学年になるともう少し漫画らしい漫画を描き始めた。この頃にはいわゆる二次創作もしていた。当時はまだ二次創作などという言葉は知らなかったが、好きな本のキャラたちが原作とはまったく違う言動をするギャグ漫画を描いていた。それを学内新聞に載せたりもしていた。自分では面白いと、間違いなく思っていた。
他にもゲームやら何やら娯楽はあったしそれらもしていたが、漫画を描かなくなるということはなかった。一番の理由は「勉強しているふり」にあった。自室で机に向かって勉強をする。それは親から課せられたルール。小学生でまだ短時間だったとはいえそれは絶対で、その間は当然テレビも見れずゲームもできない。部屋にはテレビもないしゲームはそもそも親の管理下にある。しかたなしに勉強をするが、身が入らないことも多い。そういうときは漫画に逃げるが、漫画を読んでいるのはバレやすい。途中で部屋に親が入ってきた時は隠すのが大変だし怒られる。見つかってしまえば漫画さえも取り上げられてしまうかもしれない。
けれども「描く」のは違っていた。ノートやテキスト、教材の下。そこに別の「漫画用のノート」を隠しておける。すぐにしまえる。ノートであれば怪しまれない。違うページに勉強の証拠を書き込んでおけば騙せる。ノートに描く漫画は、制限下において最も安全で確実な「勉強からの逃避」の手段であった。そしてそれは中学に進むことでより強くなる。より「現実逃避」としての側面を強め。
手代木の親はいわゆる「教育ママ」であった。勉強を、好成績を、偏差値の高い高校、大学への進学を望む。三つ上の姉が順風満帆に市内で一番の高校に受かったこともあり、彼もまた同じ道を歩むことを強く期待された。期待というよりそれ以外は許されないという空気感があった。手代木自身中学になれば勉強はより重要だということはわかっていたし、自分でも好成績は収めたかった。姉と同じ高校に進むつもりでもいた。自室にこもり勉強する時間も増えた。とはいえやはりいつも勉強に身が入るわけではない。中学に入り思春期の悩みというものも増える。何よりも部活動での「できない自分」というのが思春期の彼にとって自尊心を深く傷つけた。勉強、部活、だめな自分。そうした逃れようのない現実。手代木は自然、その現実から逃避するため妄想をした。その妄想をノートに描き留めた。漫画という形を取って。
手代木にとって漫画は現実逃避の手段であった。漫画は現実とは違う。なんでもできるし、何にでもなれるし、どこへでも行ける。手代木はよく妄想していた。かっこいい自分。モテる自分。できる自分。テロリストに襲われる教室。さっそうと解決する自分。ある日突然とある組織のバトルガールと出会い、自分もその秘密の組織の一員となって戦う。なんらかの力に目覚めて敵と戦う。そういうありきたりの妄想。漫画やどこかで見たような話。典型的な「中二病」。それでも当時の彼にとってはそうした妄想が救いだった。毎夜そうした妄想とともに眠りについた。そしてそうした妄想は、次第に「物語」の形式をとっていく。始まり、過程。続き、終わる。自分の脳内で連載漫画が始まっていく。そしてそれを、実際に形にしようとする欲求には抗えなかった。
勉強。勉強はする。一応するが、その机に向かっている時間の半分以上は実際は漫画を描いていた。とにかくコマを割りその中に自分の妄想を埋めていく。話など考える必要もない。いつだって眠る前に妄想が溢れている。次へ次へと物語は勝手に進んでいく。ただそれを忘れぬよう、引き離されぬよう、猛スピードで描き留めていくだけだった。そうして思う。もっと描きたい。もっと漫画が描きたい。ずっと漫画を描いていたい。ただひたすらに、漫画を描いていたい。
勉強を理由に部活は幽霊部員になる。しかし実際は漫画を描くため。自主学習のほうがいいからと親からの塾の勧めも断る。しかし実際は漫画を描くため。もちろん勉強もする。最低限成績を落とさぬよう、志望校に入れる程度の勉強はする。しかしそこまで。あとはふり。勉強をしているふりの、ほんとは漫画。とはいえ漫画を描くための時間を捻出するために勉強への集中力と効率化は増した。結果的に成績も上がった。しかしそんなことはどうでもよかった。
漫画が描きたい。ただひたすらに漫画が描きたい。時間が足りない。スピードが足りない。こんなんじゃ俺の物語のまだ百分の一だってかけてやいない。とにかくこの物語を、この妄想を、少しでも形にして。
そうしてひたすら描き続けていくと、一つの壁にぶち当たる。表現力。圧倒的に表現力が足りない。つまるところ絵が下手。うまく描けない。イメージ通りの顔を描けない。もっとかっこいい顔を。もっと可愛い顔を。服装。けどなによりも動き。こういうポーズを、こういうバトルを描きたい。けれども描けない。まったくイメージ通りにはならない。それでも一応「物語」を描き続けることはできるが、徐々にそれでは満足できなくなってくる。コマ割りの一つからしてもそうだ。それはただノートを何分割化しただけのコンテのようなもの。漫画っぽいが漫画とはいえない。総じて自分が今まで読んできた、好きで好きで何度も読んできた漫画とは異なる。もっと絵の練習。もっと漫画の練習を。もっとちゃんと、自分が思い描いているような漫画に、少しでも。
とにかく描く。一つのコマを納得いくまで描く。漫画を参考にして描く。小遣いで買った画集などを参考に描く。勉強時間外には触れるタブレットなどでネットのポーズ集やらなにやらを真似して描く。とにかくこのコマを、自分の思い描くようにと突き詰めていく。なんとか届く。そしたら次のコマを。そうして少しずつでもできるようになっていったら、今度はちゃんとページ全体を。コマ割りからしっかり考えて、自分の手で仕上げていく。漫画は物語だけではない。キャラやセリフだけではない。空間と表現。描けば描くほど、自分もそれが欲しくなる。だから繰り返した。ひたすらに、ひたすらに、ひたすらに……
徐々に手代木の生活は漫画に埋め尽くされていく。勉強もした。するにはしたがその時間は減っていく。受験が近づき周りの成績が上がることで順位も徐々に下がっていく。親からの発破もあったが何より漫画の時間を守るため授業中に勉強をする。少しでも時間を有効活用していく。それでも受験生の夏も過ぎれば親も皆も本気になる。いよいよ塾にも行かせられる。漫画が少しずつ、遠ざかっていく。
勉強、勉強。それは自由を手に入れるため。勉強から逃れるため。親ご希望の高校に入って納得させるため。そうして勉強漬けの日々を送る中でも漫画への思いは消えない。描きたい、早く描きたい。描けなくても妄想は止まらない。妄想は溜まる。物語は溜まる。メモでも追いつかない。忘れてしまうかもしれない。結果的に、受験による半強制的な断食、飢えが彼の漫画への欲をより強めた。
そして無事受験を終えた。試験日を終えた。これで終わりだ。ようやく解放された。落ちたときのことなんて考えない。落ちているわけもない。もうこれからは、ただひたすらに漫画だけ描ける。手代木は試験会場からの帰り道を、ただ一人ダッシュで駆け抜けた。
そうして再び戻ってきた漫画漬けの日々。今度はもう勉強もない。合格発表でそれも決定的になる。もう親も、何も言ってこない。そうして一日中漫画を描く喜びに浸かる。そうしていると、ある思いが湧いてくる。はっきりわかる。漫画のことだけ考えていればいいこの時間が、この日々が、どれだけ幸福であるか。どれだけ幸運であるか。
これが欲しい。これ以外はいらない。自分に必要なのは、これだけだ。漫画のことだけを考えて生きていく人生。漫画を描くことだけを考えて生きていく人生。
そうだ、自分が欲しいものはこれだけなんだ。
それはプロの漫画家になるという夢。自分の将来が、はっきり決まった時。そうだ、だから、俺は。
漫画だけ描いて、生きていくんだ。
外では桜が咲いていた。
*
手代木は高校生になった。高校生になるにあたり一つの目標を掲げた。高校生のうちに漫画家になる。高校生のうちに漫画家になる道筋を立てる。具体的には賞。そして高校卒業と同時に、プロの道を歩む。連載でもアシスタントでもなんでもいい。自分には大学に行ってるだけの時間も余裕もない。そのための勉強だって全部無駄だ。親は許さないだろう。激怒するだろう。だからこそ、高校のうちに道筋を立てる。金を貯める。そういう思いで高校に通った。
そうして数週間経った頃、まだ決めていない者たちのために改めて部活希望表というものが配られた。とはいえ手代木は部活に入るつもりはなかった。そんなことをしているヒマはない。だいたい何に入るのだ。運動部? 文化部? 自分はそこには用はない、と思いながらも部活一覧表で一応「文芸部」を探していた。少し前のオリエンテーション、各部の部活動紹介にして勧誘。そこで一瞬だけ壇上に上がりほんの少しの説明を残して下りた文芸部。手代木はそれを覚えていた。あの人は確かに言っていたはずだ。「文芸部は文芸部という名前ですが、人数不足などもあり漫画研究部などとも合同で活動しています。なので文芸部という名前ですけど創作全般をする創作部という感じです。美術部とはちょと違いますけど、そんな感じなのでもし興味がある方は来てみてください」と。
この学校にいわゆる「漫研」、漫画研究部はない。それはすべて文芸部に合併されている。だから実質文芸部が漫画研究部。ならば何かしら漫画のこともやっているのだろう。
漫画研究部には興味があった。そこでは何かしらの情報があるかもしれない。ずっと一人で誰かに見せることなくやってきた手代木にとっては切磋琢磨するような友人が見つかるかもしれない。アシスタントをしてくれるかもしれない。賞や道具のこともある。道具の代金は馬鹿にならない。紙一つだってそうだ。そういうものを借りられるのなら。部費で買って使えるのなら。それと賞、投稿に関するノウハウもあるかもしれない。どの程度本気でやっている部活かはわからなかったが、一度くらいは確認のため見学、質問に行ってみるか、と思い手代木は文化系部室棟にある文芸部の部室へと足を運ぶのであった。
文化系の部室の二階は「その他」の部活が集まる場所であった。文化部の中でも「メジャー」にあたる吹奏楽部や合唱部は音楽室を使っているのでそもそも厳密な意味での部室はないに等しい。楽器以外の書類などの物置といった具合である。美術部なども同じであり、部室棟を必要としているのはそうした活動の教室を持たず、かつ小規模少人数な部活。部活の中でもサークル、同好会という側面が強い部であった。漫画研究部が文芸部に吸収合併されているあたりも人数や部室の問題などもあるのだろう。田舎なので「漫画研究部などという遊びの部活は認められない」などということもあるのかもしれない。ともかくとして、手代木は初めて部室棟に、そして文芸部の部室に足を踏み入れた。
そこでそれに、出会ってしまった。
部室は思っていたよりも広かった。思っていたよりもきれいで整頓されていた。中には、二人の女子生徒がいた。一人はノートパソコンの前に座っていて、もう一人は、明らかに何かを描いていた。
「こんにちはー……」
「こんにちはー。見学の方ですかー?」
とパソコンの前に座っていた女子が立ち上がる。少しふくよかで、非常に愛嬌のある女子であった。
「あ、一応そうです。一年の」
「どうぞどうぞー。ていっても私たちも一年なんですけどねー。まあ同級生ですし遠慮せず見てってくださーい」
「あ、そうですか。じゃあ失礼します、っとその前にですけど、一応ですけど一年七組の手代木と言います」
「これはご丁寧にどうもー。こちらも名乗らなくちゃでしたね。四組の豊芦ですー。彼女はわかりますかね? 両原さん。彼女も七組なんで」
「あ、そうでしたか……そうですね、多分見覚えある気がします」
と手代木は答える。とはいえまだ入学して数週間。他中出身の女子と話す機会などない。まだ顔も名前も覚えられていない。そもそも覚える気もあまりなかった。そこは自分の居場所ではない。自分がすることはただ一つ、漫画を描くことだけ。だから教室もクラスメイトも関係なかった。
「私は四組なんで階違いますねー。さすがに入学ちょっとで階も違うと見覚えがあるかどうかもわからないくらいでー」
手代木はそれに愛想笑いを返しつつ、入り口から少し室内を見渡す。中心には会議用の折りたたみテーブルのような机。壁際には本棚。近づいてみてみると、文芸書やこれまでの文芸部の部誌。小説や詩、短歌の教本から批評書のようなもの。そしてその下には「漫画研究部」のためのコーナー。とはいえ、学校だからかさすがに漫画は置いていない。部誌の中にはあるのかもしれなかったが、少なくとも市販の「コミック」は見当たらなかった。
とはいえ、教本の類は思っていたより充実していた。イラスト集。人体の図解や服の書き方、背景まで。手に取りパラパラとめくり中を見る。こういう本は自分で買うにはなかなか高い。これを部費のおかげで無料で使える、というのは手代木にとってはありがたかったし目論見通りだった。そうして見てる間も、手代木はある一つのことがどうしても気になって仕方なかった。静かな室内。遠くで響いている吹奏楽部の練習音や野球部の掛け声が届いてくる中、手代木の入室から今まで止まることなく続いているその音。まるでこの部屋の鼓動かのように、休むことなく止まることなくほとんど一定のリズムで続いているそれ。
手代木は教本を読んでいるふりをしながらちらりと後ろを振り返る。一人の女子が、何かを描いている。明らかに漫画を描いている。絵、コマ、セリフ。それが漫画なのは間違いない。しかし驚くべきはその速度。ペン先の――鉛筆の当たる音こする音だけでもわかったが、目で見ることでなおわかる。異常な速度。とにかく速い。速すぎる。手代木は自分でも漫画を描くからわかるが、自分は決してそんな速度では描けない。いや、描けることは描けたが、下書き以下のものすごい下手な絵になるだろう。全体のバランスを合わせて描く自信もない。しかし彼女の場合、ただ早いだけではなかった。
うまい。うますぎる。鉛筆で下書きも一切なく、ついでにネームすらなく、白紙の紙を手に取るとまるで最初から見えていたかのように一瞬で定規で線を引きコマを割る。そこからは、一瞬ですべてのコマを埋めていく。下書きなしの一発書き。しかしその手に、その線に迷いなど一切ない。これまたまるで最初から見えているかのように超速で埋めていく。その絵がまた、抜群にうまい。下書きなし。一発書き。それでこの速度で、このうまさ。絵というのはたいていペン入れをした「完成品」よりラフのほうがうまく見えるものであったが、それを抜きにしても圧倒的にうますぎた。手代木にはわかる、自分も漫画を描き、子供の頃からずっと「プロ」の漫画を読んできたからこそわかる。少なくともこの絵は、プロと比べなんら遜色ない。ペン入れをしてどうなるかはわからないが、今すぐプロになれるレベルに思えた。
そうしてあっという間に、ほんとにあっという間の異常な速度で一ページを完成させた彼女は休むことなく次の紙を手に取る。そしてほんの少しだけ右手をぷらぷらと振った後――今度は左手に鉛筆を持ち替えた。
(は!?)
手代木は思わず絶句する。彼女は左手で描き始めた。先程と何も変わらない様子で。その速度も絵の出来も、先程の右手の時となんら変わらない。速度は当然に、絵が変わる下手になるということなどない。いや、注意深く見れば線には何かしらの変化があったのかもしれないが、少なくとも手代木にはそれを視認することはできなかった。
手代木は目を丸くしながら凝視していた。わかる、理屈はわかる。片方の腕、利き腕だけ使っていると疲れる。痛くなる。腱鞘炎になる。それくらい自分も長時間描くことがある手代木にもわかっていた。そしてその「解決策」として、利き手を休ませている間に反対の手で描く。それはもう、あまりにも合理的な解であった。誰にでもわかる。けれども、そんなことしようという人間はほとんどいない。できる人間は、さらに限られている。それを、この目の前の女子は、淡々と。
一年生、そのはずだ。さっき「豊芦」と名乗った女子は、「私たちも一年生」と言ったはずだ。同級生。つまり十五、じゃなくても十六歳。たった、十五年。自分とほとんど同じ時間を過ごしたはずの人間。それなのに、到達している次元があまりにも違いすぎた。その間も彼女はただひたすらに鉛筆を走らせている。止まらない。休まない。息つく間すらない。異常な体力、集中力。見た限り音楽も何も聴いていない。ただ紙と一対一。紙と自分、それしかない世界……
両原。確か、それが彼女の名前。先程豊芦さんが言っていた彼女の名前。
「あのー、ちょっとお話大丈夫ですか?」
と手代木は豊芦に声をかける。豊芦は両原が描きあげた紙をスキャナーで取り込んでいるところであった。
「はいー。なんでしょうか?」
「えーっと、まず確認ですけど別にここってお二人だけじゃないですよね?」
「部員ですよね? ちゃんと先輩も部長もいますよー。今はいないですけど、まだなのか今日は来ないのかはちょっとわからないですねー。基本活動は自由なんでー」
「そうですか。お二人一年生らしいですけどいつから入ってるんですか?」
「ほぼ入学初日じゃないですかねー」
「早いですね。じゃあちょっとだけ先輩で。少し聞きたいんですけど、ここにあるものって基本使うの自由な感じですかね」
「そうですねー。多分漫画の方ですよね?」
「あ、はい。紙とか本とか。ぱっと見ペンとかインクもあるみたいでしたけど」
「大丈夫みたいでしょー。もちろん持ち帰りとかはダメですけどー、あとは限られた道具の独占とかもですねー。基本的に周りと相談しながらシェアしていけば大丈夫だと思いますよー。まあそんなに人が多い部でもないのでそこまで気にしなくてもいいと思いますねー」
「そうですか……ちなみに豊芦さん、で合ってますよね」
「はいー」
「今はそちらで何を」
「これですかー? 長ちゃん、両原さんが描いたのを取り込んでますねー。あと写植です」
「なるほど……それパソコンとかスキャナーも部のやつですか?」
「そうですよー。そこまで新しくはないですけど全然使えますしー、ほんとありがたいですよねー。これ一応漫画作成ソフトも入ってるんですよー。文芸部だからそんなに部費とかないのかと思ってましたけどやっぱり高校ってすごいですよねー」
「そうですね。あーっと、取り込んだのはデジタルで仕上げとかですか?」
「ネットに上げるだけですねー。なので写植だけは一応」
「そうですか……」
手代木は両原の方をちらりと見る。二人が会話している間も、彼女の手は一切止まらない。会話をうるさく思うような様子もない。極限の集中下で何も耳に届いていないのかもしれない。とにかく確かなことは、彼女の手は決して止まらないということだけであった。
「でもそれだとパソコン独占できていいですね。他の人は使わないんですか?」
「意外と空いてることも多いですねー。文芸の方は手書きの人もいますしー、そもそも書く時は一人の方がいいって人のほうが多いみたいで。あと三年生なんかは受験生ですし塾とかある人もいるみたいですし。どちらかというと部活というより集まっておしゃべりするみたいな感じだったみたいなんですけどー、長ちゃんがこの調子ですから話してるのも気まずいって感じみたいでしたねー。ご覧の通りどれだけ喋ってても長ちゃんは全然気にしないから大丈夫なんですけどー」
「ああ、確かにそうみたいですね……」
自分の話題が出たところでなんの反応も示さない両原。本当に一切の音がその耳には届いてないようですらあった。
「あとはもちろん漫画描かれる方もいらっしゃるんですけど、長ちゃんが描いてるの見てると色々こう、あったみたいで」
それは、わかる。わかる気がした。いきなりやってきた新入部員が、こんなノンストップで、この速度で、この次元の絵を描く。しかも両手で。それはもう、どうしたって自信を喪失する。自分との差を感じずにはいられない。自分が描く意味が、わからなくなる。少なくとも同じこの場所で、などとは思えなくなるかもしれない。
「そうですか……その、両原さん話しかけても大丈夫ですか?」
「いいけど」
と即答。それは手代木が初めて聞いた彼女の声だった。相変わらず手は止まらない。だというのに、こちらの会話をすべて聞いていたかのような即答。一見極限の集中下に見えて、その実はちゃんとすべて聞こえているし聞いているのか、と手代木は驚嘆する。
「あーっとその、お二人はなんで文芸部、というか漫画研究部に入ったんですかね」
「紙と鉛筆あるから」
と両原は答える。もちろん手は一切止めず、視線も紙の上から少しも離さずに。
「紙と鉛筆?」
「一応使い放題だから。紙も鉛筆も自分で買ったら馬鹿にならないし。それ以外にも道具あるし。あと家じゃないから何も言われないし」
「私は長ちゃんのお手伝いですねー」
と豊芦も答える。
「ほんとはペン入れとか背景とか色々したいんですけど長ちゃんのスピードに追いつかないんで。できることをって取り込みとか色々やってますー」
「そうなんですか……両原さん作業中悪いけどもう少し話聞いてもいい?」
「別にいいけど。描きながらでも話せるし」
とやはり手は止めず、当然速度も一切落とさず答える。それを見て「いったいどうなってんだこれ」と思う手代木。
「あ、そう……あのさ、両原さんっていつから漫画描いてる?」
「さあ。絵は幼稚園の頃から描いてるんじゃない? 多分漫画も」
「へえ……それめっちゃ速いけど一日何ページくらい描いてるの?」
「知らない。数えてないから。描けるだけ描くだけだし」
「あ、そう……ペン入れとかはしないの?」
「基本しない。時間かかるし。そこまでやってたら間に合わないし。別にペン入れしなくたって私の漫画は私の漫画だから」
それは、ある意味恐ろしく自信に満ちた言葉であった。
「そうですか……それさ、両手で描いてるけど両利き?」
「元々左利き。親に矯正されて右利きにされたけど別に左でも描けるし。おかげで両手で描けるけど。疲れるし痛くなるから両手で描いたほうが合理的でしょ」
それはその通りだが、合理的だからといってそれを実践する人間は少なかったし、実践できる人間も少なかった。何より実際両手で描いてほとんど違いのないハイレベルな絵を描ける人間など、ほとんどいないに等しい。
「そりゃまあそうだけど……あのさ、できたらでいいんだけど両原さんの漫画とか読ませてもらえたりするかな」
「好きにして。優子」
「私でーす」
と豊芦が小さく手を挙げる。
「ネットに上げてるのですけどよかったらどうぞー」
とパソコンの画面を見せる。手代木はそれをスマホで検索し、ブックマークに入れた。
「これ以外にもあるんですけどなにせ膨大な枚数ですし紙ですしー、まだスキャンするのも間に合ってないんでどうしても読みたかったらうち来てください。貸すのは万が一紛失もあるんで」
「そうですね。けどもうネットに上げてるのだけでも膨大な量なんでこれ全部読むだけでも一杯一杯っていうか」
「ですよねー」
と言って豊芦は笑顔を見せる。
「はい……あの、入部する場合ってどうすればいいんですかね。まだ決めてはいないですけど」
「入部届を担任の先生か顧問の先生に渡せば大丈夫だと思いますよ。顧問の先生は国見先生ですねー。多分七組の国語もやってますよね?」
「あの女の先生ですよね確か」
「はいそうですー。メガネしてる」
「わかりました。あの、今日はありがとうございました。見学でしたけど色々ご丁寧に教えてくれて」
「いえいえこちらこそー。こちらだって新入部員で全然何もわかってないですけどお力になれたならなによりですー。部員もある程度数いないと多分廃部になっちゃいますしねー」
「ああ、そうですね……まあ俺も紙とか教本とか色々使わせてもらえるならありがたいですし。本一つにしても高校生には高いですからね」
「そうですねほんと。本だけにー」
豊芦はそう言って笑うのであった。無論、その間も両原はぴくりとも笑わず漫画を描き続けて……
「じゃあ、今日はこれで失礼します。入部決まったらよろしくお願いします」
「こちらこそですー。別に入部されなくても同級生ですしねー。後々同じクラスになることもあるかもしれませんし。漫画好きなら仲間ですから。今更ですけど漫画お好きですもんね?」
「はい、好きですね」
「やっぱり描かれるんですか?」
「そうですね、一応は。豊芦さんは?」
「私も描きますし描いてましたよー。でも今は長ちゃんのサポート優先ですねー。そっちのほうがしたいですし」
随分と仲がいいと言うか優しいというか、もしかすると結構長い仲なのかもしれない、と手代木は思いつつも、ほぼ初対面でそこまで聞くのもどうかと思い礼をして部室を後にした。
部室をあとにした手代木は、しばし物思いにふけっていた。両原長……あの絵、あの速度。あの技術。傍目から見ても異常。とても同い年とは思えない。あまりにも、レベルが違った。まさかこんな田舎の文芸部に、あんなバケモノがいるとは。打ちのめされるような感覚。どうしたって自分と比べてしまう。あれと比べ、自分はあまりにも稚拙。とてもじゃないが「絵が描ける」「漫画が描ける」といえるレベルではない。
でも、と手代木は息を吐く。別に漫画は絵がすべてじゃない。速度がすべてじゃない。確かに尋常じゃないうまさだった。ほんの少しちらっと見ただけでも漫画の理解度、完成度は自分とは比較にならなかった。それでも、漫画は絵だけじゃない。物語がある。ストーリーがある。むしろそっちが本体だ。絵はそのための手段に過ぎない。どれだけあの速度で膨大な量を描いていても、面白くなければ意味がない。
手代木はスマホの画面を見る。ブックマークしたばかりの両原の漫画。そのペンネームは、ある種挑発的でありそれでいて誓いでもある、とてもペンネームとは思えない文章。
『これが描けたら死んでもいい』
ゾクッとする。あの歳で、そういう思いで描いているのか。だからあの速度なのか。「ペン入れしてては間に合わない」というのは、そういうことなのか。自分はそんなこと、まだ思ったこともない。そんな「作品」に、出会えたこともない。
でも、大事なのは内容。中身。漫画は漫画がすべて。読んで面白いか、心が震えるかがすべて。
見てやろうじゃん、お前の漫画。どんなものなのか、確かめてやろうじゃないか。どれだけうまくてもしょせんは同い年。人生経験に大きな差があるわけではない。だったら漫画の中身だって。とはいえとりあえずこの量。スマホの画面は小さすぎるし、家に帰って腰を据えてゆくり読もう。手代木はそう思い帰路につく。
そして当然、彼の思いなどは簡単にことごとく打ち砕かれた。