死についての思索(62)
2023年3月26日
死への接近は生への接近と近似している。常態性から歩み出ることは経験と絶交することではない。経験を重んずるとは経験の自負の兆候から脱し、経験の本質へとのし上がることを意味するのであって、経験の持続ではない。経験の持続は必ず経験自体の単純な格下げとなるであろう。経験を経験たらしめるとは経験自体と絶縁することであり、経験自体を常に上昇的に捉えることである。経験の再認は理性の盲目を表している。目を喪失した理性の働きは真に邪魔者である。統一体としての理性は陶酔の踊りに耽る。連鎖的同調が知性にも感性にも及ぶであろう。その統一体において生はもっとも頂点に近づくであろう。そして生は死へと最も近接する。ただし、その距離には明らかな綻びがある。死と生は最も近くにありながら最も遠くにあるものとなったのである。故にそこには必然的な切断がなされたのである。生は遂に死を喪失したのである。
2023/08/25
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を昔の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
いわば、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を導いていく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(62)」に書かれたものである。
『死への接近は生への接近と近似している』
⇨私は通常の生活を、生きている、とは認めたくないのであるが、それは通常の生活があまりにも退屈だからではない。生活の退屈さは生活の真剣さが足りないだけであり、差し迫りがないということは現実的なことである。私は通常の生活の中に、創作の生活を有しているわけであるが、どうしてもこの創作する時間と通常の時間を区別したいのである。いわばそれは創作する時間に、生きている、を与えたいということである。私の生きているは、その創作する時間である。そのほかの時間を私は通常の時間と呼ぶが、この時間、私はいわば、死んでいる、わけである。まずはこのような普通の定義を与えておかなければならないであろう。創作するとは時間を計るというような意味を持つようである。この、時間を計測する、という概念に私の生死の意味が付与される。死んでいる時間とは、計測の行われぬ時間、である。まずはシンプルに私はこのような時間の定義を与えておきたいのである。
『常態性から歩み出ることは経験と絶交することではない。経験を重んずるとは経験の自負の兆候から脱し、経験の本質へとのし上がることを意味するのであって、経験の持続ではない』
⇨持続が力を持つというが、それは間違っている。単なる持続は百害あって一利なしと云わねばならぬ。経験の習慣化は、経験の劣化となるであろう。経験は常にその経験自体を加筆的に越え出ていかねば意味がない。経験とは加筆の原理である。加筆の原理とは膨張の原理であり、それは破裂を未来に有した好奇心のなかで行われる。加筆は愉快に行われる。加筆は未知への好奇心を原動力とする。この好奇心のない加筆は、ほとんど文体のない創作である。こんにちの文章は、この文体を欠いた、ストーリー性の淫乱に満ち溢れた文章ばかりである。それは制服を着た文章であるといわねばならぬ。
『経験の持続は必ず経験自体の単純な格下げとなるであろう。経験を経験たらしめるとは経験自体と絶縁することであり、経験自体を常に上昇的に捉えることである』
⇨加筆とは己を変容することであり、それは己を変えることで、過去の形状と絶縁することである。形の変容をみずから加えること、それは己に加筆するということである。人格の形成とは、ゆえに変容の厚みである。いくどもいくども変容が重ねられるのである。その、かさねあわせ、自体に人格の多重構造が成立するのである。加筆とは、うわがき、である。
『経験の再認は理性の盲目を表している。目を喪失した理性の働きは真に邪魔者である。統一体としての理性は陶酔の踊りに耽る。連鎖的同調が知性にも感性にも及ぶであろう』
⇨これは理性である、これは知性である、これは悟性である、これは感性である、などと区別することは不可能である。すべての判断は、このような出処の意味を無視して、いつでも決定される。出処の議論は判断のあとに結果に則して行われる。区別の認識は再認であり、いわば反省である。反省の思考は整理の様態を示す。整理するとは、やはり加筆的である。加筆とは、反省であるといえる。
『その統一体において生はもっとも頂点に近づくであろう。そして生は死へと最も近接する。ただし、その距離には明らかな綻びがある。死と生は最も近くにありながら最も遠くにあるものとなったのである。故にそこには必然的な切断がなされたのである。生は遂に死を喪失したのである』
⇨抒情詩というものがあるが、抒情的に物事を捉えることを酷く批判したのがヘミングウェイであった。彼は抒情を馬鹿にするくらい抒情的であった。己が抒情的だと思うほど私は愚かではない。私の文章は私の現実である。しかし、私はいつでもその視点を変更することができる。私は私の反省を笑うことができる。だから加筆するとは、自己自らを笑うということでもあるといえる。それは自己を対象化するということである。そうして私は私を加筆的にあらためてゆくのである。この、あらための連続こそ、執筆の源泉である。私は私を笑うために書き続ける。私は笑った私をさらに笑うために加筆する。そういう意味では、私は笑いの連続体である。私は笑い続けることによって死に到達する。死は到来するものではなく、辿り着くものである。




