死についての思索(57)
2023/03/22
人間存在には表現性が備わっているであろう。とりわけ哲学的人間の言語と思惟の間には故意的な空間があり、思惟の言語化の段階でその表現性は意識的であるとに拘らず、技術的なレトリックの宝庫であろう。言語的レトリックは人間存在の根本に密接である。言語は習得的であり、話す言語と記す言語の二種類がある。話す言語は明晰なる目的を有するものであり、性格的なムウドを発するものであり、話者はその話ぶりにおいて他者の心に信頼性を獲得するよう努める。一方で記す言語は他者性を明確に含まぬこともあるであろう。他者へ向けられた言語はレトリックの限られたものであるであろう。芸術的言語は後者に属する。芸術的言語の創造者は明確なる他者を見出せぬであろう。それは洞穴の壁面に向けられた言表であるであろう。彼は決して他者を知らぬ。彼は彼の中の他者性と主観性を殺戮しながら人間の新たな内面性を主題とし、それと対峙するであろう。彼は人間存在の開拓者である。彼は真に客観的な新しい人間であろう。
2023/08/18
今日も私は正直に語らねばならぬ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
私は、それを昔の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
いわば、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を導いていく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(57)」に書かれたものである。
『人間存在には表現性が備わっているであろう。とりわけ哲学的人間の言語と思惟の間には故意的な空間があり、思惟の言語化の段階でその表現性は意識的であるとに拘らず、技術的なレトリックの宝庫であろう』
⇨人間存在には制作行為に従事するという従属性がある。思惟の言語化にはさまざまなレトリックが潜んでいる。創造行為は世界を否定するための行為である。我々は常に世界からの跳躍を熱望している。我々は創造行為の反復によって世界からの離脱を計る。創造行為とは計量的であるといえる。それは新たな世界解釈の通路の建設化である。建設するためには計量せねばならぬ。この世に絶交を言い渡すためには、格別の計量が必要である。
『言語的レトリックは人間存在の根本に密接である。言語は習得的であり、話す言語と記す言語の二種類がある。話す言語は明晰なる目的を有するものであり、性格的なムウドを発するものであり、話者はその話ぶりにおいて他者の心に信頼性を獲得するよう努める』
⇨世界の文脈を逸脱した言語習得の努力が必要である。素朴な夢想をなんどもなんども殺戮せねばならぬ。畜群の妄想を殺害せねばならぬ。意味の多層性を解体し、平らにし、淫詩の芽を摘んでまわる必要がある。集め-積まれたものを平らにし、閑かな花を咲かす必要がある。世界の土壌を白紙にせねばならぬ。甘いロゴスの無数の蔓延りを、踏みしめ殺すことによって抹殺せしめることが求められている。今こそ、無数の跨ぎ越しによる、世界の踏み固めが必要である。その、世界、の無数の跨ぎ越しによって、世界を平らにせよ。
『一方で記す言語は他者性を明確に含まぬこともあるであろう。他者へ向けられた言語はレトリックのうちの限られたものであるであろう。芸術的言語の創造者は明確なる他者を見出せぬであろう。それは洞穴の壁面に向けられた言表であるであろう。彼は決して他者を知らぬ。彼は彼の中の他者性と主観性を殺戮しながら人間の新たな内面性を主題とし、それと対峙するであろう。彼は人間存在の開拓者である。彼は真に客観的な新しい人間であろう』
⇨芸術的言語など存在しないという思索に近頃、傾いている。言語の持ち方という概念に惹かれている。壁面に彫られた言表は、それだけで場所を有している。場所に、在っている、という様態で、示している、という言表は重さを有している。場所と結びつくとは重さを獲得するということである。ある重さを、そこへ、在っている、として記録するということである。記録するとは一般の記憶とするということである。それは個人を離れて他者へと通ずる通路である。記録を残すとは、そこに在っている、から、あそこに在っている、への道標である。




