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死についての思索(31)
2023年3月1日
己の根底に潜む悪を掴み、引き摺り出して自らの敵とし、闘争することは弁証法的である。この悪はまた己とは相反する運動原理を備えたもの、つまり己の原理と矛盾するものと捉えられるであろう。ヘーゲルの弁証法は故に闘争的であり、その核心を捉えたのがマルクスであった。弁証法は人格形成の、世界形成の、あらゆる形成のメカニズムであると近代は解釈してきたのである。だがそれは大きな間違いである。矛盾は明らかに生成のメカニズムではなく、単なる創造物である。自己の探究のために建築された己を映しだす鏡である。矛盾は発見されるのではなく、発明されるのである。矛盾があるために闘争的なのではなく、闘争的であることは人間の業である。人間は闘争的であるが故に人間的であるのである。故に非闘争的の人格追求はペルソナに帰結する。故に仏教はあまりにも厚い仮面を被っているといえる。その仮面は幾重にも無限に進行しつつあるといえる。故に仏教的死の方法は新規性が潜んでいるのである。




