死についての思索(129)
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(83)」に書かれたものである。
『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である』
①意識で殺戮する。それは類として排除することである。排除とは真に客観的な選択である。延長の契機として、わきまえつつ保持していたものを捨て去るとは実に勇気がいる。
⇨意識外に排除することは、己のうちとそとを区別することであり、己のうちにト・パンを創造することである。腹の瞳から目の瞳に移行するということである。
②闇色に染めるには他者がいる。他者を欲し、他者の目視を知らぬしらぬうちに指示している。それは積極的な命令である。
⇨「他者を欲する」とは必ず用具的な欲求である。すなわち、われわれは他者を道具と認識し、道具的な関係に入ることによって自らの道具性を披露し、それを己の存在の仕方と捉え、安息したいと願う。このような関係性にはそもそもに事実が入り込んでいる。ここでいう「事実」とは「勘定」ということである。われわれは知らぬ知らぬうちに自らの存在を、安易な四則演算に還元している。
③その命令はある種の杣絶を認識させる。突如として迷子になっていることに気付かされる。あらゆる係累が断たれる。freiwillig の喪失によって覚悟性が同時に失われる。馴染みの違和感が突然、豹変したのであろうか? それとも私自身が変わってしまったのだろうか?
⇨私が豹変するとは私の言語が様変わりするということである。支配者には支配者の言語習得があり、被支配者には被支配者の言語習得があるが、後者は実に多種多様である。その人間が、一体どのような言語を習得するかという問題は、その人間が人生をどのように歩むかと直結する。われわれは自らがどのような言語を獲得すべきか迷っている。その迷いこそ人生の核心である。われわれは様々な言語を手に入れては手放し、手放してはまた習得しているといえる。だが、それは単に名詞の変化に過ぎぬこと多々である。真に言語を習得するとは、述語の獲得に他ならない。われわれのほとんどは安易な名詞の獲得に終始している。われわれのほとんどは、真に述語的人格を所有しておらぬ。名詞的人間は、あらゆる名詞を獲得しようとする点において、実に非人格的である。だが、被人格的国家は必ず経済的有利を獲得する。なぜならばいかなる名詞を獲得しようとする人間集団は、はやい国民であるからである。
④差異を発見してはならない。それは差異の誘導だからである。自発的な差異の誘導を、自由の契機として根拠づけるべきではない。それは安易な自由であり、区別することで得た一面性の過剰な正当化であり、伝承や伝達の意味を欠いた、積極的に後悔を予言した自由である。
⇨後悔をうちに含んだ行動は高速であり、経済的である。経済とは行為の活動量である為、経済的発展の原動力には矛盾があるといえる。活動力が増すとは理性の速度を上回るということであり、理性の速度を上回るとは判断の遅延を引き起こすことである。判断の遅延は実に経済的である。われわれは判断できぬ時に最も活動するといわねばならぬ。
⑤損傷の為の自由などという非合理があろうか? それは壁へと猛進する自由なのであり、獣となった自由なのであり、翼は閉じ破れている。
⇨われわれは活動を解釈するもの、つまりあらゆる観察者によって判断の遅延を引き起こし、活動量を活性化するのである。経済的な国家では必ずメディアが発達し、常に新しい観察の目が開発されている。われわれはそのように「みられること」に慣れ親しんでいる。
⑥そのような自由に必要なことは休息である。翼の再生を待たねばならぬ。だが、しかし、自由にとって最も困難な試練こそ休息の概念である。
⇨休息とは信仰である。信仰とは無限の概念である。われわれは我々の中に無限を飼っている。無限が我々にむけて鳴いている。
⑦自由とは停止の真逆である。自由の停止は即刻呼吸の停止と同義である。自由は、それゆえに常に自殺の常習者である。
⇨自殺者は、自由の何たるかを識っているといえる。もっとも暗い穴に自ら入ってゆくものは、たったひとり自由である。推理なしに行為することこそ自由の最高潮である。判断の前に死がある。観察者の瞳の認識の以前に死が現れる。