死についての思索(128)---死の積分
2023/12/25
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(85)」に書かれたものである。
『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である』
①関心の優勢は常に振動する。伝統的な関心も今や死に色を帯び、かたくて冷たい、抹殺されかかった、光のない微動である。
⇨死はわれわれの背景ではない。死はわれわれ自体の在り方である。われわれの在り方が死の状態である。われわれは、その、世界、に対する背景として死を生きているといわねばならぬ。
②それは、もうあの光にかき消されることのない闇の始原である。もうそこにはあの光を呼び戻す動機はない。
⇨死は闇ではなく、光源である。われわれの生命は深淵から光源への回帰であるといえる。われわれは、それを肉体の崩壊という陰で演じているといえる。われわれの肉体の敗北は、四次元的なものから差した光源の陰である。われわれは、その死の崩壊によって、生命の真の姿を模倣する。
③あの動機が死んで、熱の通路は塞がれてしまったのである。
⇨われわれのあらゆる感情は、すでに方位を志向している。それはどの方向へ進もうと、単なる直線でしかない。われわれは、直線にしか宿れない。
④すなわち関心は孤立したことになる。つまり時間のない、闇の中で。もうそこには延長の契機はない。時がもう止まったということも、ない。
⇨延長とは、志向である。われわれが生きているとは、何かを志向しているという意味である。志向の停止もまた志向である。
⑤前提という、アプリオリもない。付属する価値の事物も、ない。かつて、優勢であった、あの関心の様態は、畢竟、裸体である。裸体の死が、そこに、在る。
⇨われわれは、もうすでに丸裸、裸体として無防備である。志向に頼っても、それは単なる錯覚の習慣である。われわれは死を黒く塗りつぶす。塗りつぶすとは、積分するということである。死の積分。