死についての思索(126)---死に愛撫されるもの
2023/12/12
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(84)」に書かれたものである。
『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である』
①あの意志は、この意志に殺戮された。この意志もあの意志に殺戮されるであろう。闇は決して死ぬことがない。
⇨闇に溺れることなどできぬ。闇など不可能である。世界は、つねに、もう光で溢れている。光の階層が占めているといわねばならぬ。それは光の立場の奪い合いである。世界は、すでに、もう完全に照らされている。そのような公開的な世界では、壇上と非壇上の拮抗が絶えず繰り返されているだけである。誰もが足の生えたダイヤモンドであり、地上を右に左に闊歩する金剛石である。誰もが偽物でありながら、その不正を暴露するために歩きつづけている。
②なぜなら光とは各自の部分であり、本来的には闇が空間の基態であるからである。
⇨『思慮は学とは言えぬ』とは、かのAristotleの言であるが、思索に目的なるものはあるのであろうか。おそらく、それは、在っている、という様態で、そこに在る。それは、死へともたれかかる、という在り方で、在っている、といえる。
③闇から時間は発生する。時間の発生は記号となる。
⇨時間とは、真に個別的な、その、今、の、それである。その、今、においてしか時間は、在っている、という在り方はしない。
④記号的時間は表示的時間とは異なる。それは動かざる時間である。
⇨動かざる時間からの脱却こそ、死への邁進である。
⑤闇には無数の記号が稠密している。確かに闇には始原があらわれている。
⇨アルケーの周辺であるとは、闇が根源的であることを表している。それは創造される場所であるということである。
⑥そこでは確かに存在は喪失していない。据え直しの存在はない。対概念における存在はない。現状維持の存在はない。傾向性に基づいた存在はない。
⇨そこに在るのは、在っている、という、その、今、との愛撫である。そこには死から愛撫される、その、在っている、というものが在る。それがおそらくわれわれの根源である。