死についての思索(125)
2023年12月10日
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(83)」に書かれたものである。
『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である』
①我々は世界と関係しているが、世界に指示されているわけではない。
⇨世界は「自己指示の集合体」であるといえる。われわれは「私は世界に置いて無益である」という自己宣告を決して行えないのである。なぜならそれは我々自身は自己の反ロゴス的なものを、完全に否定できないからである。そのような人々は私は「通常の人間」と呼ぶ。
②この指示なしというところに近代の自由概念の生まれた隙間がある。
⇨世界からの指示がないということは、世界に応えるという意識の欠如であり、世界的な習慣の建設に従事しないということであり、自らの生活を己の知恵で建てるということである。
③それは記号に囲まれた、いかにも限定的な領域である。あらゆる表示記号に我々の自由は幽閉されているのである。
⇨この表示機能によって我々の自由は麻痺させられるであろう。それは個人の自由とかいう問題ではなく、国としての自由の在り処に変貌をもたらすであろう。表示に抵抗しなければならぬ。
④故に我々の自由は、囲われた自由であり、形式的に安全化された自由であり、飼い慣らされた自由である。
⇨飼い慣らされた自由からの脱却のためには、内側からの破れが必要である。つまり、国家を内側から破壊する必要がある。国家とは表示の創造を絶えず行うものである。国家自体が表示の不正を行えば、その国の存亡はもはや絶望的である。旺盛に表示を破れ。
⑤もし我々がこれを破りたければ、その身近にある表示と対峙し、その表示の意義を変更しなければならないであろう。その我々に向けられた矢印を、何か別の、その存在論的構造へと指し示さなければならないであろう。
⇨表示との戦闘は、いわば革命の原理である。
⑥もしそのような力が可能となれば、あるものは、その領域の自由から逃走することが、確かに可能である。
⇨領域からの闘争によって表示の外部に出ることもまた、ある破れのトリガーである。しかし、それは積極的な破れの契機ではない。