死についての思索(124)---関心の創造に長けたもの
2023/11/29
①着手点は変更された。欠如の認識、ないということの理解、それは本当に可能なのだろうか?
⇨「ない」ことの認識とは、思惟の焦点の消失である。
②そこにあったものを失うということは、それは喪失であり、欠如の客観的認識とは異なるであろう。
それは、もはやもうそれは存在しないという括りに理解されるものである。
記憶の概念は喪失の具体的経験であろう。
単なる記憶とは、無へ流れ出た本来あるべき経験の、思惟的再構成であろう。
それは隠されていたものという意味において、内に在ったという事実を含んでいるであろう。
⇨そこにあったものを失うことは、喪失でもなんでもない。
もうそれは存在しないというのは、実に奇妙な錯覚である。それはあの時も「ない」のであり、今にも「ない」のである。
「ない」とは、隠されているを常に含んでいるはずである。
③「瞳の欠如において、その鳥の明快な飛翔は許可されているということですね?」
「いや、だから、一体誰がそれを許可できるというんです? その鳥は自ら飛び立ったわけですから、それは何者にも意図できません」
「なぜです?」
「それは鳥自体の存在に歴史性が備わっているからであり、だからこそその決断の一つ一つは自由であるのです」
⇨決断とは、すでにつねに、もう成されている、という隠されている、が含まれているはずである。それが必然というものの意味である。だからそれは露呈の発露を待っているのである。
④「その鳥が、何者かが仕掛けた餌に向かって飛翔したとしても、そう思うかね?」
「思います。製作者の意図を考慮に入れても、それはその鳥にとって純粋に向かうべき神殿であるんですからね」
「その罠によって、その鳥は捕らえられ、食べられるとしても?」
「命を取られようと、その鳥には微塵も関係がありませんよ」
⇨無限に飛翔する鳥は、必ず存在する。
⑤「だが、話を遡ると、その鳥の、以前のあの鳥たちもということになるが、その過去の鳥も同じように罠にに引っ掛かったのだが、なぜだろう?」
「それは罠に引っ掛かったりしていないからであって、死の伝承に過ぎないからです。それは運命を所有した鳥の必然的結末なのですよ」
「つまり、その鳥たちは死にたがっているということなのかね?」
「違います。単に、超越した記憶を、すすんで掴んだということであり、運命を先取し、運命の先端に立って、その生活を伝承することを決意した、鳥の運命群なのですよ」
⇨「罠に引っかかるもの」と「罠に引っかからないもの」がいるとしたら、「罠に引っかかるもの」は悲劇であり、「罠に引っかからないもの」は喜劇である。悲劇と喜劇の根本には死に方の問題がある。悲劇的英雄は実に積極的に死に駆けるものである。喜劇的人間は単に死を回避するための関心の創造に長けたものである。