死についての思索(123)---無駄なことに一生懸命になることが大事だ
2023/11/27
今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。
そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。
私は、死についての問題を昔の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
いわば、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を導いていく。
(『』で書かれた箇所は過去の文章である。その文章の一つ一つに加筆を加えていったものを⇨の後に示すことにする。過去の思索については『小説家になろう』で「死についての思索(そこのあなたは、いつ、どこで、どうやって、誰と、死にますか?)」というタイトルで公開されている)
本日の加筆箇所は「死についての思索(81)」に書かれたものである。
①死の淵での死神の会話。
「今、三羽の鳥がおそろしく晴れ渡った、光の天国で飛び廻っているとしようか、君はその光景を地獄の大地から眺めている。さて、君なら何を思う?」
「私ならその晴天は、その三羽の鳥によって弄ばれていると思います。つまり、その鳥の飛翔は切断の意志であり、晴天の心はその縦横無尽な飛翔の力によって刻々と分解されるのです」
⇨その、世界は存在しなければならぬとは、つまり、われわれは死に物狂いで飛翔しつづけなければならないということである。それは絶対的一回的生命の鼓動に、絶えず耳を立てるということである。
②「ならば、その考察の逆は、空の拘束であり、鳥の飛翔の不自由であるというわけだね?」
⇨考察の逆は、単なる認識の擬態である。われわれは、そのように思惟を向かい合わせることに、慣れ親しんでいるが、それは認識の誤解である。その、世界の直面を、われわれが単に直視できぬのである。なぜならそこには認識の論理が何もないからである。われわれは、その生命の躍動の音として、まずその無音を知らなければならない。ただしこの知るは認識による知るではないのだ。
③私は大笑いをせざるを得ないその空か、その鳥たちを捕まえ、拘束するだって? 空には、あの網もないというのに。決定を下すのは、常に正に、その鳥の態度であるのだ。
⇨その鳥の態度は常に、死を目指している、と言わねばならぬ。われわれは生命の活用として存在してはならぬ。ひとりひとりが集合としてではなく、孤独な点として、生命を終焉せしめなければならぬ。すなわち、即刻自死する道を考案すべきである。
④「実に明快なことであるが、発端において飛ぶことを意欲したのは、その鳥自身である。その空は、その決意を見越してあらかじめ拘束という支配の網をしかけたかもしれないが、それは決して、その鳥の瞳にはうつらない。故に、それは空虚な、透明の支配である」
⇨われわれは、われわれ自身の認識というものを想定してはならない。それは単なる透明な認識である。あらゆる認識の壁は必ず崩壊する。その建設への盲目は、認識者としての立場による生命自体への詐欺行為である。故に、『われわれは、われわれ自身に、詐欺行為を実践している』といえる。
⑤「なぜ、それがうつらないというのだ?」
⇨うつるものはみな偽物であるという着想は、宗教的生命の発露である。
⑥私はまたしても大笑いを止められない。こいつの平凡な悟性ときたら、意欲ですらも制御してしまえる、礼儀正しい悟性ときたら、なんて退屈なのだろう。なんて衰弱した意欲なのだろう。
「その鳥には瞳そのものがないからです」
「遮蔽ではなく、欠如ということですね?」
「ええ、そうです」
⇨考えれば考えるほど『わたしは今すぐ死ぬべきである』と想うということは、人生に対して真面目であるという態度である。真面目であるだけではいかぬ。少々乱暴さのある真面目を習得しなければならぬ。乱暴さとは自らに不快をもたらす積極的行為の、その、矛盾エネルギィの露呈である。絶対的に意味のないと確信することに汗をかくべきである。