死についての思索(119)
2023年8月10日
ここに存在するとは「その、私」の為の場所が、重なることなく接合なしに、即座に、明らかに尖端として、のばされた処に在る、ということである。この、処に延長しているものが「その、私」の尖端の存在である。
延長は、全方角へ尖端をあらわしめるものである。存在の、その、尖端だけが在っているといわねばならぬであろう。その常に超えでようとする、在っている、その処だけに、存在の場所があり得るのである。それは力動の場所として、定めた時を超えでた、不定の形相をした、二度と再現できない、できあがりとして現前するのである。
延長の尖端は、生み出しの頂点であるが、それ自体に意味はない。意味を付与するものは、より源泉に、ちかい眼、として在っている。私は今、この「在っている」という語に、いっそうの下支えを探り出してみたい。その尖端の源泉なるものにこそ、存在の眼、が宿っているといえる。それはおそらく、創造されたものというよりは、受け継いだもの、継承したものの類であるような気がする。創造は、単なる創造と命名されるような所以が、その源泉に宿っているような気がする。その、宿っている、にこそ、私の考える、その、在っている、が土壌的に、在っている、ような気がする。今こそ、考えてみたいことは、「その、在っている」の「宿っている」は、「継いでいるもの」であるという直感である。