死についての思索(118)---視覚のロゴスと盲目のロゴス
2023年8月9日(西早稲田にて)
目隠しによる盲目の体験は、私の傾聴性を敏感に刺激した。言葉を視覚で捉えることは、この盲目者の言葉を触覚で捉える方法に劣っている。触覚と言葉は独特の関係を構築すると言わねばならぬ。思索の枠組みが異なっている。
通常のロゴスは視覚のロゴスということができるであろう。視覚のロゴスは、視て集める-視集であるが、盲目のロゴスは、接触し集める-触集である。その速度は視覚のロゴスが盲目のロゴスを上回ることは言うまでもない。
また視覚のロゴスは停止のロゴスとも言い表されるであろう。一方で、盲目のロゴスは、力動のロゴスと言えるであろう。その面から見ても大きくこれらは異なっている。視覚のロゴスの過剰は、ただ闇雲に集めてくることを可能とする。それは「言葉の擬集」という形であらわれることが多々である。なぜならば、停止の本質には、惰性が潜んでいるからであり、惰性の本質には「極端な取り込み」が隠されているからである。多弁、饒舌の類は、こうした惰性の過剰に反応した見せかけの掻き集めである。掻き集め、もりあげることで安堵するのである。こうした者は、その特性として「声の聴けぬ者」をあらわせしめるであろう。