死についての思索(117)
2023年1月25日 過去の作品に加筆したもの
<その、死>とは、その実践において<その、私>として機能している。
<その私>は、集められたもの、へと合流することで、方向のそれぞれを識る。
識るとは、おのれの立ちあらわれの足元を識る、ことであり、その足元から別の足元を識る、ことである。
ゆえに識るには、現知と過知または未知とがある。過ぎ去ったを知ることも未知を知ることも、すべて現知からの距離として把握されるのである。
素朴な問題に立ち返ってみると、やはり<その、私>は、いくつもの謎を含んでいる。
謎とはその疑問の手がかりが全く見出せないことであるが、なぜ私自身が<その、私>であるのか、それについては一切の手がかりがない。それは言い表せば「なぜ私は、<その、私>として際立った形で事象へと進むのか。それはなぜ私の<その、私>であるのか、それは何か別の<その、私>であってもよいものなのか、今後私の<その、私>としての感じとは別の、その感じ、があらわれるのか」といったようなことである。
そこには素朴な疑問がある。いや、素朴すぎる疑問符があるといえる。
疑問符への解答を保留して、いつも<その、私>を連れ回しているのは、私自身である。
それはまるで背中に何かを背負っているような感覚である。
では、やはり<その、私>は<その、死>のように、もう完全に死んでしまっているもの、であろうか?
死んでしまっているもの、を何か死守するために、私は<その、私>なるものを発現するのか?
では、やはり<その、私>は私の変貌態であるのか?
このようなことを考えても仕方ないのかもしれない。
それは茫漠たる大海へと船出した後に、問われる問いであり、その根源の港にはもう戻れぬ距離にある。
私自身はもうずっと前に<その、私>を発見してしまっている。
つまり、私自身と<その、私>はもう元に戻れぬほどの距離がある。
それはもはや重さを持たない幽霊のような侏儒にすぎない。