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死についての思索(116)

2023年1月29日---過去の日記に加筆したもの


おのれの思惟に、巨木を孕んでいる、と思うことは、おそらく刺激的な自惚れである。独特な木を孕んでいる、と思うことは、おそらく控えめな自惚れである。自己分析からの悪影響があろうと、自惚を解明することは必要である。それはおのれの思惟に、飽き飽きする、為に実践するのだ、ということもできよう。


「もっともっと思惟の先にある、その停止した思惟の発見にこそ、巨大な独自があるはずだ」

そう想うところに、思惟の記録、つまり創作の発生があるといえる。


創作とは、やはり「目的の先にあるものを掴もうとする行為」である。

それは「死への契機」ともいえるし「激しい生の契機」ともいえる。

それは「去勢」と「隆起」の二つの側面への確率といえる。


おそらく「創作のその先へ」を達成すると、何かしらの決断を行うことになる。

それは、おそらくラカンの云う「あなた自身の中にあって、あなた以上のもの」への、跪き、のことである。

われわれは、やはり、跪きの対象、へと恋焦がれているのではないか?

やはり、人間は「激しく死にたがっている」のではないか?


<その、死>は、そのような、跪きの形態、で、開かれ、露呈するに違いない。

<その、死>は、発明と発見の狭間で、立ち現れる、に違いない。

<その、死>は、群がりの、恋焦がれとして稠密である、に違いない。


やはり、人間そのものは、元々<その、死>の現象として、もともと、つねに、すでに、発生しているに違いない。



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