死についての思索(114)
2023年2月6日に書かれた日記
(「死の日記を過去へ遡る」過去へ行くこと)
矛盾のない人生は地獄的である。だから矛盾のある人生は苦悩的であるが、そのかわりに最上の遊戯性を兼ね備えている。あらゆる認識は遊戯性に端を発する。遊戯のないところに認識はないといえる。認識とはある種の可笑しみを得ることである。
故に、人間の笑い、には認識の根本が隠されている。それは無限を分解し、現象を端的に全体たらしめ、有限のまどろみをあらわせしめる。
「そうだ、その有限のまどろみこそ、美なのだ」
それは変幻自在な自惚の様態として振る舞う。その振る舞いの様こそが、笑いの演舞である。
「そうだ、人間の笑いとは、自惚の演舞なのだ」
それは自愛の最上級として君臨する。
それはまさにカントが述べた、あの、義務に対峙する。
あの義務とは、その、世界の裂け目の表面を埋め尽くす、無数の、名もなき幽霊達である。
故に、あの、義務は、あの、義務、たち、として稠密に屹立している。
それは所狭しと裂け目から触手を、とおくへ伸ばし求めている。
人間の笑いは、この触手に、触れずに、無感触に、笑わされている、というべきであろう。
人間の自惚は、透明な足枷の笑いとして、こだましている。
その笑いの失踪した者こそ、おそらく新しい死をもたらす者である。
広義の自惚から狭義の自惚へと移行する者。
その者は、必ずしも最小の微笑を湛えて、新しい死に顔を、その、世間、に晒し、醸すに違いない。
その、人間は、はじめての、最小限の笑いを所有した、者、として、世間に、その、をあらわしめるに違いないのだ。