死についての思索(103)
2023/06/14
(E)陰への下降者としての死骸・停止者の話し相手
光の待遇に与れなかったもの、その、停止者は逗留のありさまのなかに有る。それは、もうない、と、いまだない、の中間領域であり、速度を回復した、場、である。勿論、行き詰まりではないのであり、非自立的な場であるなどと速断してはならない。むしろ逆に、その、場、においても開発的なものの維持がなされているのである。ただし、その開発はある絶望のなかに居合わせている。その絶望は死への道を暗示した雰囲気を有している。故に、そこで行われる開発は死へと繋がる道の開発に類似するのである。その開発は建設的開発ではなく、忘却的開発であるために、その日常性は壊滅的な傾向を帯びることになる。記憶的なものは蓄積を排除され、建設的開発の自負を、その、態度によって忘却させることで、せめて、どうにかしがみついて、居合わせている、といった呈示を行うことになる。つまり、重荷を下ろしたり、担いだりする心境を考えれば、その、場、は、一切の重荷から解放された、次なる重荷との無交渉な、いわば何事かに注視し、接触しようとする関心を閉じた、その、場、なのである。このような場を、盲目の場、と呼ぶことにする。