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死についての思索(1)

2023/05/30

 以前の思索を顧みれば、生に対する死の根本性が問われているが、在るとは何か、が未だ曖昧である。在るとは何か、在ると有るは何が違うか、そのようなことから思索を進めてみたいと思う。

2023/02/08


今日もまた別れゆく人々の涙を見た。別れとは死への哀悼である。我々はこの世界に在りながらこの世界に在らぬものとして認識している。死は生の母胎である。我々は死の腹の中に眠る赤子であると理解しなければならない。世界は幻視の連続であり、その連続性が実態のように感じるが、その連続には無限の巨大な隙間が在ると考えなければならないであろう。世界は叙事詩的であり、現実から切り離されている。真に現実は現実主義者の妄想であり、夢想の信心である。この世には現実などは存在しない。死もまた存在しない。死は空間としてアプリオリに在るのである。静止的な世に我々は動的であるのである。時間自体も我々のうちにのみ存在している。時間は存在的である。我々は死に対して口のきけぬ人間である。人間とは死の鑑賞者である。故に人間は悲劇的である。悲劇的人間は超現実の渦中に在る。その人間の精神性は聖化に達しているであろう。ギリシャ悲劇の自殺性は徐々に没してゆく者には理解できぬであろう。凄惨極まる非業の死は今や流行の真逆として消滅しかかっている。


2023年2月7日


戦慄すべきものからの解放、認識するとは予測することであり、予防することであり、行為を殺害する。行為へと駆り立てるあの欲求の動悸は認識を圧倒する。あの欲求の名は憧憬である。欲求とは憧憬がその根にある。払拭された幻想は憧憬であり、蔓延った幻想は憧憬への憧憬である。人間は憧憬を所有することに憧憬を感じ、一種の感情と化してしまったのである。そのような人間は虚像の従者である。虚偽の従者で占められる世は自然と虚偽の世界となる。

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