n回目の終わり
橙色に染まる空の下、2人の少女が手を繋いで歩いていた。
否、繋いで、という表現は相応しくない。片方の少女がもう片方の手を引いて、急かす様に歩いていた。
側から見れば、その光景にかなりちぐはぐは印象を持っただろう。
手を引いている方の少女は、何処にでもいそうな村娘。古布を継ぎ接ぎして作った服に、労働の痕が見え隠れする肌。髪色は地味で、瞳だけが年相応に輝いている。
片や、引かれている方の少女は――
* * *
――本当に、この子は何者なのだろう。
日が暮れたら、辺りは真っ暗になる。村から近いとは言え、夜の森が危険なのは間違いない。火を持って来なかった事を軽く後悔しながら、肩越しに後ろを振り返った。
「ーっ」
整えられていない道に慣れていないのか、歩きにくそうにしながら付いて来る少女。
目が合い、軽く首を傾げる。ただそれだけの動作が、1枚の絵の様に可憐で、美しい。
――本当に、この子は何者なのだろう。
高級だとわかる柔らかそうな生地で作られた純白のワンピースは、この森に来るまで汚れも解れも知らなかっただろう。肌は傷一つ無く、村一番の金持ちが自慢していた、陶器という物よりも白い。さらりと揺れる髪は月の様で、瞳は澄み切った空よりも深く――静かだ。
「えっと――」
何も言わずに目を逸らすのは良くない。とりあえず名前を呼ぼうとして、それが不可能だという事に思い至った。
少女達は初対面だ。ほんの数分前に、何をするでも無く森で座り込んでいる少女を見て、すぐ側の村に住む少女は「知らない子だ」と思った。
大して大きくもない村、それも同世代なら全員の顔と名前を知っている。
それに、こんなに綺麗な子は見た事がなかった。
目の前の風景の中、少女だけは別世界にいるかの様。暫くの間、ぽかんと口を開けて見惚れ――慌てて首を振る。
――迷子、かな。
この村の子でないなら、道に迷ってここまで来てしまったのだろう。もうすぐ暗くなるとわかっていながら、放っておく事は出来なかった。
「あの、」
声をかけると少女が顔を上げた。綺麗な空色の瞳は、涙で濡れてはいなかったが、好奇心で輝いてもいない。
感情の読めない、空っぽの瞳だった。
虚無という訳では無い、ただただ静かで、そこにあるモノをそのまま見詰める瞳。
「ー?」
ぱちぱちと瞬きを数回。それから、ゆっくりと微笑む。人に会えて安心した時の笑顔、という表現が当て嵌まるだろうか。そんな笑顔を、知識の中から引っ張り出して再現した様で――
「あなたのお名前は?」
少女はどこか不自然さを感じながらも、それを言葉にはしなかったし、出来なかった。言いようのない些細な違和感は、初対面の緊張に呑まれ、認識すらされなかったのだから。
「ー?」
再び、瞬き。それから首を横に振る。
答えられない、或いは、質問の意図がわからない、という返事だと少女は捉えた。
「お家はどこ? ここから近い?」
少し迷ってから、先程よりもはっきりと首を横に振る。
――やっぱり、迷子なんだ。
そっと近付き、軽く屈んで手を差し出――そうとして、自分の手が土で汚れている事に気が付いた。これでは彼女の手を取るのに相応しくないと感じ、慌てて服の裾で拭う。
「わたしの村、来る?」
幾分かマシになった手と少女の顔を交互に見てから、頷いて立ち上がる。手を引かれる少女は、嬉しそうな笑顔を添える事を忘れていなかった。
「えっと、あなたは何才なの?」
名前を呼べないので、代わりに話題を振ってみる。返事は、首を傾げるという動作だけ。
――もしかして、喋れないのかな。
だとすると、意思疎通はどうすれば良いのだろう。今の所問題は起きていないが、両親の元に帰すには、彼女から情報を聞き出す必要がある。
「文字は書ける? あ、わたしは簡単なのしかわかんないんだけど、村の偉い人なら知ってるはずだから」
こくんと頷き、それから再び首を傾げる。
読み書きが出来るのはわかったが、何を疑問に思って首を傾げたのか。自分の発言を振り返り、考えてみる。
「んー……もしかして、わたしが文字を知ってるのが意外だった? 学校には行けないけど、窓から覗いたりしてたから……」
学校と言っても、空き家を使って大人達が授業をするだけだ。だが、学校に行くより森で食べ物を採って来た方が、日々の生活の為になる。
だが、街では自分くらいの年頃なら読み書きは当たり前らしい、という話を聞いた事があるので、少女が不思議に思ったのは「読み書きが出来ない」の部分かもしれない。
「ほら、わたしって見ての通り貧乏でしょ? わたしが森に行かないと、ご飯に困るんだもん。だから、滅多に使わない文字の為に学校なんて――」
返事がない分、自分が口を動かさないと沈黙が流れてしまう。話し続けながら、ふと繋いでいたはずの手が解かれている事に気が付いた。
「どうかしたの?」
足を止めて振り返ると、迷子の少女もまた、その場に立ち止まっていた。
白いワンピースの裾がはためき、月色の髪が躍る。橙色の空は、いつしか半分以上を藍色に変えていた。
薄明の中に佇む少女は、まるでお伽話に出て来る天使の様に儚げで――
「……■■■」
桃色の唇が、ゆっくりと動くのを少女は見た。
内容は聞き取れなかったが、鈴が鳴る様な美しい音が風に乗って聞こえてきた。
「なんだ、喋れるんじゃ――」
よかった、と告げようとして、驚きに声が止まる。
少女の手に、身の丈程ある杖が、握られている。
――それは、なに……?
彼女が、そんな疑問を言葉にする事は無かった。
立派な杖が、地面に突き立てられる。
ただ1人を残して、この世界の時間は停滞し――
――そのまま《初期化》され、全てが塵へと化した。
* * *
迷子の少女を連れ帰ろうとした、貧しい村の少女はもういない。
彼女の存在は、世界ごと消滅した。
他でもない、手を引かれていたもう1人の少女によって。