【中】
一方。
「遅い」
亀に外で仕事をするように言ってからかなりの時間が経過している。私はあのどんくさい亀が何をしているのか、外で仕事をしていた者たちに尋ねてみました。
「亀ですか?僕たちは困っていないから他を当たってくれ、と言ってから会ってないですね」
「そう、ありがとう」
亀が出ていった裏口付近で仕事をしていたタコたちの答えを聞き、私はもう一組の授業員にも話を聞きました。
「亀?私たちの仕事は手が足りてるからって断って、それで――」
「呼び込みをすれば?て提案したんですよね」
「そうそう」
「……呼び込み?」
エビたちの言葉に不穏な予感を抱いてしまいました。あの仕事が遅くて何をやらせても平均未満の亀に、そんなハードルの高い業務がこなせるはずがありません。
「そう、わかったわ、ありがとう」
エビたちにそう言って私はバックヤードの様子を見に歩を進めました。嫌な予感がビンビンにするけれど、ここにいない亀のことを考えても無駄です。それよりも、今いるお客様へのサービスを徹底するべきだと――。
そう思っていた私に、従業員の一人が少し慌てた様子で連絡をしに来ました。
「はぁ?」
その連絡内容に、私は柄にもなく間抜けな声を上げてしまいました。だって、予想をはるかに超えた最悪な状況だったのですから。
私はこの竜宮城の最高経営責任者。従業員の不手際があれば、速やかにお客様に謝るのも私の役目です。しかし、この状況は私にとって最悪以外の何物でもありません。
「ようこそ、竜宮城へ。浦島さん」
竜宮城のロビーに立っていたのは、何の変哲もない人間の男性でした。これだけならまだマシです。でも、ここに来た経緯が非常に厄介です。
「私はこの竜宮城の主の乙姫です。この度は、カメを助けていただきありがとうございます。お礼として、今日はどうぞごゆっくり竜宮城でお過ごしください」
私はそう言って丁寧にお辞儀をしました。ここには他のお客様の目もあります。従業員を助けてくれた相手は、たとえそれが人間であっても礼を尽くさなければなりません。それが、世間体ってものです。
私は浦島という男を連れて、たまたま空いていた最上級の部屋へと案内しました。ここは浦島という人間が後十人いても快適に過ごせるくらいに広々とした部屋です。いくら何でも、一般の部屋に通すわけにもいかないので、仕方なくです。
「それでは、しばらくおくつろぎください」
私はそう言って、静かにその場を立ち去りました。
しかし、私の頭の中は煮えたぎるマグマのように熱く、冷静さを失っていました。
「あのぉ」
バックヤードに入って掛けられた声に、イライラしながら問いかけます。
「なに?」
「え、えっとですね。先ほどの浦島という人間が入った”松”の部屋ですが、サービスはどのようにいたしましょうか?」
「あー、それね」
通常、最上級の部屋に泊まるお客様には、その方が望むサービスを提供することになっている。松の部屋にもグレードがあり、それによって行うサービスの内容が変化するのだ。予約時にその内容を伺うため、今までは用意周到にお客様を迎え撃てたが、今回は完全にイレギュラーだ。何の準備もできていない。
とはいえ、最上級の部屋に泊まった客が何のサービスも受けていなかった、などと他の客に知られ広まると色々厄介だ。過激化するホテル業界ではそのような噂などが命とりとなる。乙姫はとりあえず、今出来る最高のもてなしをしよう、と従業員に指示を始めた。
「お待たせいたしました。軽食でございます」
浦島が空腹かどうかわからなかったので、私はとりあえずの軽食を持ってきた。これにどんな反応をするかによって次の料理が決定する。
「あ、ありがとうございます」
私は座っている浦島の前にスッと料理を差し出す。ついでに、浦島の横にいるカメを一瞥した。あのカメは、恩人だからと言って横につくことになった。正直、浦島一人にするのは怖いが、カメが一緒というのも別の意味で怖い。
浦島はおそるおそるといった感じで料理に手を付ける。
「……!おいしい!」
「ありがとうございます」
「うちは料理にこだわっていますからね」
私の定型的な言葉に続いて、カメは自慢げにそう言った。若干イラついたが、静かに深呼吸をしてその怒りを鎮める。女将としての矜持だ。客の前で負の感情など見せることはできない。
「浦島さん、お腹は空いておりますか?」
「そうですね、夕食までまだ時間もありましたし――」
「じゃあお腹が空いているんですね。ここのディナーは他とは一線を画すおいしさですから、絶対に気に入りますよ!」
「へー、そうなのか。それは楽しみだな」
カメの言葉に私はこめかみがぴくぴくと動くのを実感する。あまりこの場にいると笑顔を保てなくなりそうだ。私は素早く頭を下げて、表情の変化を悟られないようにする。
「それでは、夕食の準備をいたしますので、少々お待ちください」
それだけを言って私は再びこの部屋を後にした。
バックヤードに一直線で戻った私は、声を荒げながら料理長に指示する。
「あのクソカメが連れてきた客が、夕食をご所望だ!」
「は、はぃい!!」
私の形相を見た料理長が、顔を真っ青にして料理を始める。そばで別の作業をしていた料理人たちも、私の異様な雰囲気を受けて慌てて調理内容を切り替える。
浦島という人間に出す夕食が何よりも優先すべき事項である、というのが伝わったらしい。
私は伝えることを伝えたので、バックヤードで準備中の踊り子部隊に話をしに行く。
「あのクソカメの客が夕食を食べるとのことだ。それに合わせて、お前たちも登場することになる。準備は良いか?」
「は、はい!」
踊り子部隊のリーダーである女性が背筋をピンと伸ばしてそう答える。彼女の表情から、若干の怯えの色が見えるが、気のせいだろう。
料理長と連携を取るように指示し、私は他の従業員にも話を通しに行く。
「あなたたち二人の仕事はここからここまでの部屋の準備だったわね。でもあのクソカメのせいで、この部屋からこの部屋の清掃をする者が踊り子部隊に派遣されたの。だから、休憩に入るのは少し遅れるけど、なるべく時間内にここらへんの部屋の清掃も受けてほしいの。お願いできるかしら?」
「「はい、わかりました」」
「ありがとう」
私は、竜宮城の見取り図を片手に多くの従業員に業務の修正と追加を行っていく。
「私はあのクソカメの客の相手をしなくちゃいけないから、この部屋とこの部屋のお客様へ食事を運ぶ役目をあなたたちに任せたいのだけれど良いかしら?」
「はい、それじゃ、私はこちらの部屋を担当します」
「それでは、私はこちらの部屋で」
「助かるわ、ありがとう」
この竜宮城は従業員が豊富にいるわけじゃない。踊り子も、今日はイレギュラーなので人数も少な目だ。踊り子を本職にしつつ、従業員もこなしているという者が今日はあまり多くない。だから、今日の彼女たちは出来る限り経験のある者が前に出て目を引き、それ以外の経験の浅い者は引き立て役となる。という構成にしている。全員が合わせて動くと、粗が見えてしまうからだ。一般の大広間で行われる、数名のダンスと同じというわけにもいかない。あの部屋に泊まった客には特別感を与えなければならない。だからこそ、予約段階で話を聞き、その日に向けてシフト等の調整を行っていかなければいけないのだ。
「最悪」
私はポロリと本音をこぼす。バックヤードだし、お客様に聞こえていないだろうから良いか。と自嘲気味に笑った。
そんなこんなで第一夜は過ぎていく。
夕食を提供し、それと同時に踊り子部隊が浦島の部屋でパフォーマンスを行う。浦島が喜び、カメが自慢げにしているその姿を見ると殺意を覚えるが、それを隠して何度も厨房と部屋を往復した。
他の従業員たちも頑張ってくれた。
受付は交代がなくなり、一人でチェックインの制限時間まで立ち続けるという苦行を経験した。
客の部屋に料理を運ぶ者は、私のやる予定だった部屋の分まで負担することになった。夕食を届けるタイミングなども考えると、かなりハードになっただろう。
厨房はいつも通り激務である。しかし、浦島という存在によって、食事製作の優先順位が大きく変化し、一般のお客様に届ける時間が少し遅れそうになった。しかし、そこは経験豊富な料理長の手腕によって、なんとかお客様に違和感を与えずに乗り切ることが出来た。
清掃組みはお客様が寝静まってからの活動になる。浦島の影響を受けていないグループに見えるがとんでもない。清掃担当だった者が、夕食時という忙しさのピークを乗り切るために駆り出された。主に踊り子部隊に入ったり、その踊り子によってできた穴を埋めるために働いた。それによって、清掃を行う人員が予定の半分以下となってしまった。
私は、夕食を終えて踊り子も撤収してきたのを確認し、バックヤードで全員に声を掛けた。
「今日はお疲れさまでした。イレギュラーばかりで大変だったと思いますが、皆さんの働きによって何とか乗り越えることが出来ました。本当にありがとうございました」
「「「……」」」
私の言葉に誰も返事をしない。それほどまでに皆が疲れ切っているのだと思う。
「このイレギュラーをもたらしたあのクソカメは厳重処分を致す予定ですが、浦島という人間を陸に返すまでは処分はできません。ですので、しばらくお待ちください」
「あいつ、本当になんなんだよ……」
料理人の一人がそうぼやく。周囲も、声には出さないが表情から同意しているのが見て取れる。
「おそらく明日には帰ると思いますが、万が一に備えて明日も居座る可能性を胸に留めておいてください」
「おいおい、ふざけんなよ……」
「私も同じ気持ちです。正直、今すぐにでも追い返したいところですが、そうもいきません」
他の客に見られている時点で追い返したり叩き出したりなどは不可能となってしまった。
「これによる手当は全てあのクソカメの給与とこれからの働きで補います。ですので、よろしくお願いします!」
私が出来るのはこれくらいだ。ここにいるみんなに頭を下げて、離職しないように願うだけだった。