【上】
みなさま、浦島太郎という物語をご存知でしょうか。
とある青年が浜辺でいじめられていた亀を助け、お礼に竜宮城に連れて行ってもらう。そして、そこで乙姫たちからおもてなしを受けて、お土産に玉手箱をもらう。波辺に帰るとそこは数十年が経過した世界だった。困り果てた浦島太郎は、乙姫にもらった玉手箱を開けてしまう。結果、浦島太郎はおじいさんになってしまいました。
めでたしめでたし。
というものです。浦島太郎のエンドは複数あるものの、それに至るまでの過程は変わりません。
そんな浦島太郎の物語を、乙姫や亀側の視点で見てみるとどうなるのか。私の個人的な見解と偏見が多分に含まれている物語になりますが、どうぞお楽しみください。
むかしむかし伊豆の南に竜宮城と呼ばれるホテルがありました。
「五号室のお客様、チェックアウトしました。清掃お願いしまーす!」
「団体で予約のスズキ様がお見えになりました。アメニティは大丈夫でしょうか?」
「大浴場の清掃へのヘルプお願いします!」
お客様には見せない裏側では、慌ただしくスタッフが駆け回っています。そんなスタッフをまとめ上げているのが、オーナー兼女将の乙姫です。
肌の白さやきめの細かさ、しわもほうれい線もない若々しい見た目は男性客の視線を集めています。まさに看板娘と言えるでしょう。
そんな乙姫は、仕事に関しては非常に厳しいのです。
「あなた、お皿を洗うのが遅いわよ。そこのあなた、どれだけ急いでいてもお客様がお通りになる廊下では絶対に走らないように言ったでしょう?あなたも、多くの荷物を運ぶならキャリアを使用しなさいと言ったでしょう。横着は止めなさい」
紙の資料片手にテキパキと指示を飛ばしていくその姿はまさに出来る女、キャリアウーマンです。
お客様のチェックアウトが多くなり、早いお客様はチェックインを始める、そんな入れ替わりの時間帯だけあって現場は非常にピリピリとしています。乙姫の厳しい視線が周囲を見回す中、一匹の従業員に目が留まります。
「ちょっとあなた、何やっているの!」
ヒステリックな声がバックヤードに響きます。誰もが顔を顰めてそちらをチラリと伺います。
「ご、ごめんなさい」
そこにいたのはつい先日入社したばかりの亀さんでした。
「そんなスピードで仕事が終わると思っているの?この仕事は速さが命なのよ?他の人に迷惑をかけないで頂戴!」
「っ!」
ビクッと身体を強張らせる亀。乙姫の言葉に委縮してしまいました。
そんな亀を見て乙姫は大きくため息を吐きます。これじゃあ使い物にならないな、と。
とはいえ、ここでいきなりクビを宣告するわけにもいきません。周囲の目もありますし、仕事が遅いといきなりクビを宣告されるという噂を立てられれば、新人が入ってきてくれなくなります。ライバル店も多い中、この店が不利になるような噂はできれば避けたい。
乙姫はなるべく厳しい声色にならないように注意しながら亀に言いました。
「ここは他の人に任せて、あなたは外のお手伝いをしてきなさい」
「……はい」
乙姫の指示に、亀はトボトボと裏口から外へ向かいました。
外でも竜宮城の従業員が仕事をしています。亀はその中で話しかけやすそうなタコさんに声を掛けました。
「あの、乙姫さんに外で仕事をしろ、と言われたんですけど……」
「外での仕事?ううん、ここは別に手は足りているし、他の人に聞いてみてよ」
タコさんはその持ち前の足数で、多くの箒を操って竜宮城回りの掃き掃除を再開しました。その姿を確認し、亀はそっとその場から離れました。
スイスイと泳ぎ竜宮城の出入り口付近にたどり着いた亀は、そこでエビさんに出会いました。
「あの、乙姫さんに外で仕事をしろ、と言われたんですけど……」
「外での仕事?ううん、ここは大丈夫かな。私たちでも問題なくこなせているし」
「さっきタコさんにもそう言われたんですけど……」
「そうなの?んー、じゃあお客さんの呼び込みとかじゃないかしら?」
「呼び込み?」
亀は首をかしげました。
「そう。ご予約のお客さんじゃなくて、予約をしていない飛び入りのお客さんを捕まえてくるの。まだ部屋は余っているはずだし、外での仕事で残っているのはそれくらいじゃないかな?」
「わかりました。ありがとうございます」
お客さんが見えたらしく、エビさんはキリッとした態度になりました。
亀は首を伸ばしてお客さんの姿を確認し、そっとその場から離れます。そして、お客さんがエビさんをしっかりと認識したのを確認して、エビさんはサッと腰を曲げました。誠意ではだれにも負けない、180°のお辞儀です。
亀はそれを見て、エビさんにもらったアドバイス通りお客さんの呼び込みをしようと竜宮城から離れた場所に向かいました。
呼び込みに最適な場所を探しているうちに、亀は荒波に揉まれてしまいました。どうやら海流の荒い場所を通ってしまったようです。
そうしてしばらく流された亀は、気付いたら浜辺に寝そべっていました。海の底にある竜宮城からずいぶん遠くまで来てしまいました。ここは、あの人間たちが跋扈する砂浜のようです。遠くの方から人間の声がします。
嘆息したい気持ちを抑えつつ、亀は踵を返そうと身体をよじりました。しかし次の瞬間、彼の身体に影がよぎりました。
「おいみんな亀がいるぞー!」
男の声だが声変りをしていない高めのトーン。これは人間の子供だ、と亀は瞬時に認識しました。しかし、彼は地上で素早く行動できません。子供たちが集まってくる前に海へ逃げることが出来ませんでした。
「わー、本物だ」
「でかいなー、こいつ」
「でもあんま動かねーな」
ついに囲まれてしまった亀は、八方ふさがりです。子供たち五人がしっかりと逃げ道を封鎖しています。
絶望した亀は、とりあえず身体を甲羅の中に避難させました。これで致命傷を負うことは無いでしょう。
大人を呼ばれれば終わりなのに、亀は耐えていれば大丈夫、などと考えています。
しかし、そんな愚かなはずの亀の選択は正しかったのです。
「こら、何をしている!」
救世主が現れたのです。
人間の男性がこちらに近づいてきます。
「亀が可哀想だろう?逃がしてやれよ」
「やだ、これは俺たちが捕まえた亀だ!どうしようと俺たちの自由だろ」
「……ふむ、じゃあこのお金を上げるから、俺に亀を売ってくれ」
「それならいいぞ」
男のお金を受け取り、子供たちは嬉しそうにその場から立ち去りました。
「大丈夫か?」
残った人間の男は亀に優しくそう問い掛けました。
亀は恐る恐る首を伸ばして、男と周囲の様子を伺いました。周囲には先ほどの子供たちがおらず、人間はこの助けてくれた男性だけ。あとは穏やかにリズムを刻む波の音が響くだけでした。
「あ、ありがとうございます」
亀は足と腕を出して男の方に向き直り、ペコリと頭を下げてそう言いました。しかしいくら助けてもらった相手とはいえ、人間を前にこの行動は無防備と言わざるを得ません。
よくよく見ればこの男は釣り竿を持っています。つまり彼は釣り人で、魚を取って生活を送っているようなやつです。海に住まう者として、あまり仲良くしたい人物であるとは言い難いでしょう。
とはいえこの亀はそんなことは微塵も考えていません。
「もう捕まるんじゃないぞ」
そんなことを言う男に感謝の念を抱き、海に戻りました。
良い人だったなぁ、と思いながら竜宮城へ戻る道程であることを思い出します。
「あ、呼び込みの途中……」
そうです、亀は自分の職務を放棄していたのです。これを乙姫に知られれば、厳しい罰を与えられたり、クビを宣告されたりするでしょう。それは困ります。
「そうだ!」
考えの浅はかな亀は、ここで最悪の行動を取ってしまいます。
スイスイと先ほど男に助けてもらった場所付近に戻ってきた亀は、キョロキョロと回りを見回します。そして、海岸で釣りをしている救世主様を見つけました。
「あ、人間さんこんにちは」
「ん?君は……」
「はい、先ほど助けていただいた亀です」
「あぁ、この前子供たちにいじめられていた?」
「はい。それでですね。人間さん――」
「ごめん、一応俺には浦島っていう名前があるんだ。その人間さんって呼び方は止めてくれるかな」
「そうなんですか。それでは、浦島さん、竜宮って知っていますか?」
こうして、亀は浦島を竜宮城へと招待することになりました。