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「当たり前やないか、顔くらい変わります。まさか、沙夜子さん、安全な檻の内側で修行するとでも思ってたんか?」


 普段温厚な人ほど怒ると怖いものだ。というよく聞く言葉が沙夜子の頭に浮かんだ。


「いえ。ただ、いろんな怪異に出会ってきましたが、人形の怪異というのは初めてで……」


「さよか。だけど、一言で妖と呼んでいても、その実体は様々なんや。この人形はなぁ、大昔に人間から逃れようとした妖が入ってしもうた人形で、陣を張ることによって逃げられんなくなった妖怪。そのまま封じていたんやけど、修行の相手として使えるんやないかってことで、残ってきた人形や」


  ジロリ、と変わらず睨み続ける人形のその表情には、積年の恨みつらみが現れ出ているのだろうか。


「さあ、今陣を解くから陣を張ってみい」


「……はい」


 『いきなりですか!?』と内心思ったものの、また安全な修行とでも、と言われそうだったために、密かに思うだけで留めておく。沙夜子は、一歩分横へ移動した梓の真横に並ぶと、人形と向かい合う。見上げる視線に生唾が勝手に出てきた。


「何してるんや。手をかざして!」


 見よう見まねで右手を前に突き出す。何も言われなかったためにそのまま腕を後ろへと引いた。


「そのまま維持して。3・2・1で陣を解くで」


「はい!」


 梓は再び右手を翳した。


「行くで。3……2……1、今や」


 梓の手がだらりと落ちる。沙夜子の潤いのある少しふっくらとした白い手が、かけ声とともに人形へと突き出された。


 が、何も変化は起きなかった。怒りに満ちていた人形の顔は、幸せそうな元の顔へと戻ったままで、明らかに失敗した空気が部屋中を覆っていった。梓の手から陣が発動し、人形が怒りの形相を浮かべる。


「まあ、失敗やな」


「すみません」


「当たり前や。私も御言様だって最初から上手くできたわけやない。それに肝心のことはまだ全然教えてないしな」


「……えっ」


 ぼんやりと灯りに照らし出された顔には、確かに意地悪そうな微笑みが零れていた。


「沙夜子、どんなイメージで陣を作ろうとしたんや?」


「どうって、こう、あの人形を四角く囲むように、こう、頭のなかで描いて」


 手を何度か前に出してそのときの状況を再現する。


「陣は四角形なんやろか」


「四角形、じゃない? じゃあ、三角形とか、あ、五芒星!?」


「どうやろなぁ……」


 何を言いたいのかいまいち釈然としない。陣の形に何か意味があるのか。それとも形には意味がないというのか、だとしたら何を基準にすればいいのか。


「境のない世界に境を見つけ、念を込めて手を突き出す。陣の発動にはこの二つの段階が必要なのはわかるな?」


「一つ目が境のない世界に境を見つける。そして、二つ目が念を込めて手を突き出す?」


「そうや。最初の段階、境のない世界に境を見つける。あんたはそれを勝手に四角形で区切った。やけど、境は『区切る』んやない、『見つける』んや。この違いわかるか?」


 腕を組んで天井を見上げる。湿気った木の匂いが漂ってくるようだった。


「……区切るのは、勝手に境目をつけることだけど、見つけるは……自ずと見えてくる……みたいな」


「正解や。それができないと次には進めん。連なる世界の中に確かな継ぎ目を見つける。それはあんたがやったように四角形のときもあるかもしれんし、あるいはそのモノの輪郭のときもあるやもしれん。その継ぎ目を正確に見つける、感じ取る。それが、陣の発動には必要なんや。ほら、向き合ってみい」


 ぐいっと背中を押されて人形の前に移動させられる。怒りを湛えたその姫様を目を細めたり大きくしたりして凝視しても、継ぎ目なるものは見えてこなかった。


(境って何なの? この人形の輪郭とは違うの? 世界の中に確かな継ぎ目と言われても、きっと人形を含む目の前の景色全てが原子や素粒子で構築された世界だろうし。そうなったら、それこそ境のない世界、継ぎ目なんてそもそもないんじゃーー)


「難しいなぁ」


「……はい」


「やったら、しばらく一人で向き合う必要があるな。答えが見つかるまで、ここにいることや。心配せんでもその人形は、可愛らしい人形のままやから」


 返事はなかった。というよりも、沙夜子は返事をすることを忘れていた。その代わりに茶色がかった大きな瞳はそこに映る世界の分析を続け、頭は思考を続けていた。


 梓は一つ微笑むと、後ろにある襖をそっと開けて部屋の外へと出ていった。


 再び襖が閉じられると、そこにはただ静寂だけが残った。

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