弐
耳がピクッと動いた。何者かが階段を歩いてくる音を聞き付けて、仕方なしに御椀を戻した。特徴的な摺り足は、宗匠の足音。
足音が大きく近くなっていくにつれて、なぜか血の臭いも増していく。宗匠の周りはいつも呪われたように血生臭くて鼻がひっくり返そうになるが、今日は一段と酷かった。
「頃合いだ。出せ」
耳にざらつく低いしわがれ声に蓮の中の犬が反応を示した。喉が鳴りそうになったのをなだめて堪えさせる。
「は、はい、ただいま」と、焦ったようにヒナトが今さっき閉めたばかりの牢に飛び付き鍵を開けた。
「出ろ」ではなく「出せ」か、と心の中で毒づくも外へ出られるのは有り難い。できるなら早いところ館の外へ出て新鮮な空気で肺を膨らませたい。
「この時間ならまだ修行じゃねーみたいだけど」
腰を浮かした蓮に鋭い声が飛んでくる。
「レン兄ぃ! また、宗匠様にそんな口の聞き方して!」
「構わん。それだけ気概がある方が次の試練に耐えられるやもしれん」
「なるほど、次のステップへ進めたわけだ。で、次は何をすりゃいいんだ?」
宗匠と呼ばれた老人は灰色の外套を翻すと、一言「ついてこい」とだけ言って階段を上っていった。
「変わらず偉そうだな。なあ、ヒナト。次の試練ってなんなんだ?」
足音が階段から離れたのを確認して蓮はぶっきらぼうな声をぶつけた。
「わかるわけないよ。おれの仕事はただの世話係。『犬飼見習い』が生きている限り、世話をする、それだけしかできないんだもの」
「だよなぁ」
と言ってみるものの、心の中ではまたサラッと恐ろしいことを言いやがってと呟いていた。無邪気に自分に向けられる笑顔に若干の恐怖感を抱きながらも、蓮はヒナトの頭に手を置いた。
「じゃあ、言ってくる。今のお前の口振りからすると、ここへはもう戻ってこないんだろ?」
「うん、そうだね。修行を終えるのか、喰われて死ぬか、どっちにしてもきっとレン兄ぃには会わないかな。それが、掟だから」
一度も笑顔を崩すことなく告げられる言葉が妙に生々しい。蓮はその手を離すと、代わりにデコピンを一つお見舞いする。少年の顔がやっと歪んだ。
「イッタっ! 何すんだ!?」
「じゃあな」
後ろ手に手を振ると、蓮は抗議の声を背に受けながら階段を上がっていった。その先に待ち受けているものに期待することなく。
何週間か振りのシャワーを浴びたあと、案内されて向かった場所は、ひどく殺風景なところだった。ダークブラウンの四畳ほどの木造の部屋には、真ん中にポツンと小机が置かれているだけ。窓もなくどこか不穏な雰囲気、そして机の上に置かれたモノが、蓮を息苦しくさせていた。
漆塗りされた焦げ茶色の小机は、光沢があり、いかにも高級ですと主張しているように見える。歴史から人々の記憶から忘れ去られ、落ちぶれた犬山家には似つかわしくない一品だ。そんな高級品の上に置かれているだけに、それは、かなり昔に聞かされたモノで間違いなさそうだった。
最近まで失っていた記憶を手繰り寄せる。まだ小学校に上がる前の、ヒナトよりもさらに幼い頃、蓮は間違いなくここにいた。本家の人間として将来を担う一員になるべく犬飼見習いとしての修業に明け暮れていた。
ーー「よくやった。それ・・が強力な得物の一部分となる」「お祝いだ。こんなに早く試験を突破したのはお前が初めてだ」ーー
「これが何か、お前ならわかっているだろう」
机の後ろに座していた宗匠の瞳が怪しく光る。真っ白な手袋をはめた両手でそれを丁寧に持ち上げると、くるりと裏返し、刃先を見せる。
赤錆が混じった鈍色にぼんやりと光るそれは爪に似ていた。刃先に触れただけでするりと切れそうな、鋭利な爪が何かの皮で作られた手袋の先に四本並ぶ。
「……狗鈎」
記憶の奥底から絞り出すようにその名を呟くも、それから目を離すことはできなかった。呪縛にでもかかったように。
「そう、狗鈎だ。妖を貫き、京極の陣に匹敵、いや凌駕する我等の武器」
それは宗匠の右拳を吸い込むように覆った。途端に一本一本が生き物のように蠢き、甲高い金属音を打ち鳴らした。まるで囁くかのように。
「さて、次の試験の内容を告げる」
思わず喉が鳴った。鳴らしたのは自身か、それとも内に宿る狗かーー。
俊巡する間もなく目の前が緋に染まった。喉元深くに四本の刃が食い込み、血が喉から口から噴き出していた。
「これが最終試験だ」
躯の奥からじんと痺れが広がり、脚が崩れる。
「この狗鈎で」
床に倒れたはずなのに浮遊感が支配する。頭が重く、瞼が意志と関係なく強制的に閉じようとする。
「最も大切な命を刈り取れ」
眠りにつこうとする意識の中でその低い声だけが残響していった。




