壱
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鉛の味が口の中いっぱいに広がっていたことで、犬山蓮は、また鉄格子を噛み千切ろうとしていたことを悟った。やれやれ、と息を一つ吐き、備えられた木製汲み取り式の簡易便所に唾を吐き出す。
だいぶ慣れたものだと思う。最初は思わずその場で吐瀉物を吐いてしまい、ヒナトが後始末に来るまでの長い時間、あの強烈な臭いを耐え抜かなければならなかったから、生きた心地がしなかった。
溢れる唾を出し切ったところで、定位置の敷き藁へ戻ろうと、後ろを振り返った。ふと、鉄格子に目が向く。薄闇の中を目を凝らすと幾度も試みたのであろう噛み跡があちこちに散見され、改めて居心地の悪さを感じる。それだけではない。分厚い壁にも、どうやって到達したのかわからない自身の身長よりも遥かに高い天井にも引っ掻き傷がついている。その様がまた、尽きることのない衝動を感じさせた。
身体が震える。それは、隙間風からの冷気のせいだろう。そう半ば思い込ませるようにして、蓮は藁に横になると裾がほつれてカビ臭いタオルケットにくるまり、じっとそのときを待つことにした。
実際、最近の冷え込みは凄まじいものがある。自分の手や足が身体に触れたその冷たさで驚いて目が覚めるほどだ。いくら南柳市とははるか離れた南の地だとしても、冬の季節をほとんど布切れ一枚で過ごすというのは、一言でいえば苛酷だった。
だが、それも修行の一貫なのだと言われてしまえばそれで終い。心内はともかく誰も文句を言うものもなく、無条件で従わされてしまっていた。
それにこれくらいの酷しさの方が、自分の境遇にも、これからの企みにも相応しい気持ちもある。昂る感情を丁寧にコントロールするには、これくらいが丁度いい。
(……それとも、実はオレってMなのかな……?)
そんなことを考えている内に、蓮はまたしばしの浅い眠りについた。
微かに聞こえる階段を降りる足音が一気に意識を覚醒させる。草履に短い間隔ーーヒナトだ。それに朝飯を持ってる。またご飯と漬物と、どうやら今日は味噌汁付きらしい。
蓮の予想通り、まだ年の頃は7、8歳といったところのヒナトが御盆を両手で持ちながら、いかにも慎重に足を進め、牢の前までやってきた。
「レン兄ぃ! 今日も生きてるか~?」
ざんばら髪に釣り目の、どことなく鬼神紙都を思わせる外見だった。きっとこのくらいの子どものときにはこんな感じだったに違いない。紙都と出会った頃のことを思い出し、目が細まった。
「生きてるに決まってんだろ。死んでたら、お前にまた一つ面倒を押し付けることになっちまうじゃねぇか」
「そう? もう、何人か『喰われた』人見てるから、レン兄ぃにも起こらないとは限らないと思うけどね」
冗談で言ったつもりが、真面目に返されてしまった。しかもさらっと恐ろしい事実を突きつけて。返す言葉を失った蓮は、話題を変えようと、お盆の中身を鉄格子越しに覗く。
「みそ汁ついてるなんて初めてじゃねえか?」
少年は一旦お盆を床に置くと、パンツの後ろポケットから鍵を取り出した。ガチャガチャと金属音が二人以外誰もいない地下室に響き渡る。
「そうだね。ここへ来てもう半月くらい。だいぶ、『憑依』にも慣れてきたって判断じゃない? ここしばらく、自分で処理できてるじゃん」
南柳高校での一件以降、蓮は完全に蘇った記憶を元に故郷である四国へと戻ってきた。山奥に秘匿されたようにひっそりと佇む犬山家本家へ。
好きこのんでこの地に家を構えたわけではない。あるとき祖先が行った呪術、そして罪を元にしてここで暮らさざるを得なくなったという。
少年から蓮へ、御盆が手渡される。箸を手にすると、礼を言うことも忘れて早速久方ぶりの汁物を口に含んだ。がーー。
「あっつ!!!!」
予想以上の熱さに口から吹き出してしまった。せっかく運ばれた玄米混じりの白ご飯と漬物が茶色に汚される。
「急に掻き込むからだよ。猫舌ならぬ犬舌なんだから、ふーふーして冷まさないと」
基本的に、人間以外の動物は加熱調理した食べ物を食する習慣がないため熱いものは苦手だった。蓮の中にいる犬も、もちろんその例外ではない。
犬神、または狗神と呼ばれる呪術がある。それは、妖怪と対峙する必要に迫られた人間集団が数多考案した中の一つだったが、強力かつ残酷過ぎるがゆえに人間社会から次第に遠ざけられていった。双璧をなすと言われている京極家の結界陣とは、実に対照的に。
その呪術を有する犬山家本家へ、蓮は力を手にするために今一度戻ってきた。
100年以上は使われているだろう年期の入った地下牢の壁は脆い。すぐに汁物も覚めてしまうだろうが、待ちきれずに蓮は息を吹き掛けた。




