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最初に空気を切るようなか細い声に反応したのは、指先だった。人差し指と中指が僅かに動き、感触を確かめるようにゆっくりと掌が握り締められる。次いで反対の手が、腕が、頭が、胸が上がったところで、紙都の意識が戻ってきた。
(……呼んでいる……助けを……行かないと)
身体を持ち上げようとしたところで、溜まっていた血が一気に口内へ流れ込み、外へ吐き出された。真白な石の粒が朱く染まる。
燃え上がるような痛みが身体を走り、力が抜けてまた地面へと激突する。 胸の辺りに震える手を持っていくとまだ空洞が残っている。
(……この傷なら……鬼化すればすぐに元通りになる!)
紙都は言うことをきかない両腕に力を込めると、再度身体を持ち上げようとした。助かったのは、運の良さ以外の何物でもない。貫かれた箇所が僅かに心臓を外れていたこと。完全に息の根を止めなかったこと。
全身を襲う痛みと悪寒にふらつきながらもなんとか両の足を地につけて立ち上がった。目の前に広がっていたのは、踏みつけにされた白装束の面々がまるで庭園の一風景になっているかのように倒れている姿。
一人一人の姿を目で追っていくと、一番遠くで血を流したまま動かない梓の姿が目に飛び込んできた。
(……そんな……)
また甲高い悲鳴が紙都の視線を動かす。倒れた梓のその先には、何人かの産女が襖を壊し中へ入ろうとしている姿、そして、それを実に楽しそうに眺める鬼の姿があった。
(待て)
心の中でいくら叫んでもその言葉が届くことはない。
(待て!)
言葉を、思いを、怒りをぶつけるには、鼓膜を揺さぶる叫びを。
「……待てよ」
前のめりに倒れそうな足を踏ん張ると、紙都はあらん限りの雄叫びを上げた。獣のような咆哮を。それは真っ直ぐに空気を伝い、子どもみたいな姿の鬼の、酒呑童子の鼓膜を震わせた。
「……まだ、生きてたんか」
傷口が何事もなかったかのように修復していく。力が指先にまで漲みなぎっていく。
「行くぞ」
紙都は目標に向かって全力で走った。
「面白いやないか。来いや」
酒呑童子はその顔には全く似合わない不敵な笑みを浮かべると、腰を落とし左腕を後ろに引いて構えた。
数瞬の間の後、再び拳が激突した。
「突っ込んでくるしか能がないんか、あんたは」
腕を掴まれ、身体を引き寄せられる。眼前にはまた血に濡れた紅い瞳が迫る。余裕に満ちた微笑に向けて、紙都も負けじと笑った。
「なんや!」
「同じ攻撃をするわけがないだろう」
引き寄せられた胸を酒呑童子の腕が貫く。その瞬間に鮮血が飛び散る腕を両手で掴むと、紙都はそのまま全体重を乗せて酒呑童子の身体を押し倒した。
体への損傷と痛みを度外視した作戦だった。一度負けていなければこんな手は浮かばなかったかもしれない。それに今の紙都の目的は酒呑童子を倒すことよりも、その先にいる沙夜子と和花を守ることにあった。
縁側に倒れ込んだ酒呑童子の体を蹴ると、腕を胸から抜き取るために中空へと跳躍する。そのまま回転しながら、破れた襖を縫って沙夜子の前へと着地した。
「紙都……」
「待たせたな」
眉根の下がった心配するような顔を見たくなくて、すぐに産女の方へ向き直った。
「いや! 待たせたな、じゃないわよ! 重傷じゃない!!」
「大丈夫だ、すぐに治る」
「大丈夫って、そんな大きな傷!」
慌てたように駆け寄るも、みるみるうちに傷口が塞がれていく様子に手が止まった。
「ほら、大丈夫だろ? たいていのケガならすぐ治る。俺がこいつらを食い止めるから、沙夜子は下がっていろ」
「……でも、痛みはあるんでしょ?」
「いいから、下がれ!!」
紙都が乱暴に手を振るうのと酒呑童子が侵入してきたのは、ほぼ同時だった。ふわり舞い上がる雪のように、黒の着流しは音もなく舞い、射し込んだ光に照らされた新緑色の畳を踏む。
「いい手思い付いたなぁ。香車かと思ったんやけど桂馬やったか。姑息なぬらりひょんが殺られるはずや。やけど、もう二、三手で詰みってところやな。そこの歩の女と桂馬のあんた二人だけやったら、玉は守りきれんやろ。こっちには飛車と後ろに成金が並んどる。どうあがいてもあんたに勝ち目はないんや」
「机上の空論って言葉もあるだろ。やってみなくちゃわからないよ」
沙夜子を庇うように立ちはだかると、両足をやや広げて拳を構えた。その落ち着いた声音に、漆黒の瞳に恐れは見当たらなかった。
「わかるで。さっきの一回と今の二回、体がなまってたから外してしもうたけど、三回目はないで。次は、絶対あんたの心臓抉ったるわ」
「やってみな」
矢のように、紙都は跳び上がった。




