肆
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一番窓側の一番後ろに沙夜子の席はある。何度か席替えをすることがあったものの、入学当初からずっと変わらず目立たない席に居座り続ける沙夜子を羨ましがる人も多くいたが、今となってはクラスの誰もがそんなことを微塵も思っていなかった。
教室の入口から見ると、沙夜子の席は周りから離れぽかんと浮いているように見える。
彼女は一人だった。いつの間にかそうなり、誰もそのことを気にしなかった。彼女自身も含めて。
沙夜子は熱心に白色のスマホのメモアプリに文字を打ち込んでいた。今までに集めた情報を一つ一つ正確に書き起こし、頭の中で事件の全体像をまとめていく。
(死んだのは、青柳百合。私より一学年上の二年生。2―Cのクラスに所属し部活動はしていない。性格は大人しくて目立たないタイプ。友人はいないわけではないけど、ごく少数)
スマホが微かに震えた。メモを中断して画面を切り替える。
(百合なんて……名前の通りね)
頭は回転したままだ。文字を読みながらでも別の部分で思考活動は続けられる。
(大人しくて、悪く言えば存在感の薄い存在。クラスメートから見れば取るに足らないどうでもいい存在で、教師からは問題を起こさない良い生徒。自殺をする理由が見つからない。そして――)
今バカ男から届いたハートマークだらけのメッセージの情報を組み入れる。脳裏には忘れもしない桜の花びらが舞っていた。
(あの桜を何人も見た人がいるという事実。これは自殺なんかじゃない)
「怪異よ」
そう呟いた言葉に周りのクラスメートがビクッと反応した。沙夜子は構うことなく、携帯のメール画面に文字を入力し始めた。
時間にして午後14時頃、沙夜子と吉良、紙都と犬山、そしてもう一人南柳高校の女子生徒がオカルト研究部の部室に集まっていた。
「みんな見てきただろうけど絶対に慎重に、静かに、そして迅速に動いてね」
沙夜子は椅子に座って、その長い足を偉そうに組むと、おもむろに話を切り出した。
緊急職員会議の結果、『全校生徒はすみやかに下校し、自宅待機』という判断が下されたため、校舎内に残っている生徒は誰一人いない――はずだった。
校舎にはすでに何十人もの警察関係者が入り、状況を調べるためにあちこち動き回っている。
4階とはいえ、ここに誰かが入ってくるのは間違いなかった。
「今回の事件。オカルト研究部の独自調査によると、オカルト絡みの事件だとわかりました。警察は今校舎内を探り回っているけど、それと同時か調査が終わり次第、今度は亡くなった青柳さんの身辺を調べるはず。そこで先に重要参考人としてこの人を連れてきたわ」
探偵気取りか、と紙都は思わず言ってしまいそうになったが、後の恐怖を考えて口をつぐむ。
「吉良、さっさと紹介して」
指示を受けた吉良は急に立ち上がると、メガネを何度も触りながら説明を始めた。
「えっと……この人は……その……じゅ、重要参考人です!……えっと、名前を藤澤さんと言いまして……えっとぉ……」
トントントン、と机を叩く指が沙夜子のイライラを表していた。時間ないって言ってんのに、なにちんたらやってんのよ。
「……あ、あの……」
場の空気にいたたまれなくなったのか、吉良がかわいそうになったのか、重要参考人である女子生徒はおずおずと吉良の横に立った。
「私、藤澤茜と言います。百合ちゃんとは同じクラスで、友達で」
長い髪の毛を後ろでまとめ、上品そうな雰囲気を醸し出すその少女は、小さな声で震えながら自己紹介を終えた。
みんなが彼女に目を向けているというのに、犬山だけは何事かをスマホに打ち込んでいる。
「というわけよ」
沙夜子は机に身を乗り出して、どうだと言わんばかりに目の前に座る紙都を見た。
紙都はポリポリと頭を掻いた。
「そう言われてもわかんないよ」
「わかんないの? バカね」
)容赦なく冷たい言葉が放たれた。
「わかってるよ。亡くなった青柳さんのことを調べるためにこの人を呼んだんだろ?」
心が痛んだのか、紙都の口調に怒りが混じっていた。
「じゃあ、なにがわかんないのよ」
「オレ達がここにいる理由だ!」
紙都の肩に嫌らしい手が触れる。
「何言ってんだ。オレらもうオカルト研究部の一員だろ?」
「そうよ。あんたはもうオカルト研究部の部員の一人なのよ。あんたは違うけどね」
「えぇ~そんな~」
紙都は肩から犬山の手を乱暴に振りほどいた。
「冗談じゃない! なんでこんなことしなきゃいけないんだ! 警察も動いてるんだろ? それに……!」
「それに?」
沙夜子は怪訝そうに首を傾げた。
「い、いや、なんでもない……けど」
「何か隠してることがあるなら、今のうちに言っておいた方がいいわよ」
「な、なんにも、ない」
「ふーん」
……わかりやすい男。こいつ絶対何か隠してる。ヌカヅキに関すること? それとも今回の事件について、もしくはその両方、か。
「まあ、いいわ。言ったでしょ、これはオカルト現象よ。警察なんかの手には負えないし、そもそも警察になんか渡さないわ」
「警察にできないんじゃ、オレらに何ができるんだよ」
「それを今から考えるのよ。幸い、今の時代にはネットっていう素晴らしい情報網があるわ。それを使えば、なんとかなるわよ」
「警察だってネット使えるぞ。それにあっちはオレらよりもっと人も多いし、力もあるし、オレらなんか――」
「何してるんですか!!」
突然の大声が二人の間に割って入った。今にも泣きそうな振り絞ったような声がさらに続く。
「何なんですか、あなた達は。人が、死んでるんですよ。私の友達が。つい昨日話したばかりの友達が。クラスに馴染めなかった私に最初に話しかけてくれた友達が。明日また会おうねって約束した友達が。……いなく……なっちゃった……」
後は言葉にならなかった。涙が綺麗に整えられた顔をぐちゃぐちゃにし、足が体を支えられなくなってその場にうずくまった。
体全体に温かい人間の体温が広がっていく。彼女の体温か、それとも私のこの情けない体か。
「……ごめんなさい」
気がつけば、沙夜子は自分より一つ上の先輩を、泣きじゃくる小さな女の子にするように後ろから抱き締めていた。
「謝らないで、いいです。私の方が、ごめんなさい。あなたの気持ちを全然考えていなかった」
そうだった。自分の興味が優先して抜け落ちてしまっていた。人が一人死んでいるんだ。この柔らかな温かい体を持つ人間が。
震える体を抱き締めながら、沙夜子は紙都の眼鏡の奥にある、動揺してゆらゆらと揺れている瞳を見つめた。
「もうできないなんて言わないわよね」
その言葉を自分自身にも言い聞かせた。今更になって身体が恐怖に怯えていたのだ。
怖い、わね。そりゃそうよ。人が一人死んでいるんだもの。だけど、ここまでやったなら、やらなきゃいけないじゃない。
紙都が静かにかつ確かに頷くのを見たあと、沙夜子はゆっくりと抱き締めていた体を解き、少女をパイプ椅子に座らせた。
「あなたの気持ちは無駄にしないから、話を聞かせてもらえる?」
少女は鼻をすすりながらコクコクと首を縦に振った。犬山がすかさず取り出したハンカチを渡す。
「オカルトでも警察でもいい。百合ちゃんがどうしてあんなことになったのか絶対調べて下さい」
「わかったわ。今、あなたは昨日青柳さんに会ったって言ったけど、それが最後?」
少女は犬山にもらったハンカチを広げると、目の周りを拭いた。
「そうです。それが最後」
「なんか変じゃなかった? 態度とか口調とか外見なんでもいいんだけど」
「別に、いつもとおんなじでした。おっとりしてて、優しくて、でもちょっと抜けてて」
「他には? 昨日じゃなくても最近でもいい。何か違うことなかった?」
割って入ってきた紙都は、沙夜子が初めて会ってから今までにないくらい熱っぽくて積極的だった。
なんだ、やる気あるんじゃない。自分の口元が綻んだのを沙夜子は気づかなかった。
「そうね。最近変わったこととかない? 本当になんでもいいのよ」
ハンカチを動かす手が止まった。
「本当に些細なことなんですが……」
「うん、いいわ! 何? 教えて!」
「首にネックレスをつけるようになって」
「なんだ、そんなことかー」
紙都はがっくりと肩を落とした。
「いいえ、すごいことよ」
「え?」
「今まで大人しかった良い子が、シャツの下だからバレないとはいえ、校則違反のアクセサリーを学校でつけてるのよ。これはすごい変化だわ」
「そ、そうなの?」
「そうよ。私にも経験があるもの」
「その経験って?」
聞いたとたん沙夜子の顔が真っ赤になった。
「ひ、秘密に決まってるじゃない!」
きょとんとしている紙都に犬山が耳打ちをした。
「バカだなあ紙都くん。それは女心ってね」
「そういうことなのか?」
「そういうこと」
沙夜子は照れを隠すように手を叩いた。男はなんでこう……。
「もう、その話はいいから! それで、どうなの青柳さんは?」
「あ、はい、今言われたとおりです。最初に気づいたときは私、びっくりしちゃって」
「青柳さんに彼氏はいたの?」
「そういう話ならオレが――」
「あんたは黙ってなさい」
「はい! わーい、怒られた~」
この男、心底バカね。ただこういう男にも使い道はあるのよね。
「もし、彼氏ができたなら、その人の名前を教えてくれない? あんた、さっき携帯で何かやってたけど、そういう交友関係とかは詳しいの?」
「うん? うーん、まあ、顔は広いとはよく言われますが」
「じゃあ、調べなさい。それで、彼氏はいたの?」
少女は不思議そうな顔して、腕を上げて小躍りしている犬山を見ていた。
「ええ、いました。ただ、それが誰か教えてくれなくて」
「秘密にしてた?」
「そう、ですね。なんだかその話題は避けてるみたいで……あっ、でもこの学校の人だって」
この学校の? それなら百以上もいるわ。この情報だけじゃさすがに。
「調べられないわよね?」
犬山は不可思議な踊りをやめて、黙っていればそれなりに見える顔を真面目な表情に変えると、手に持っていたスマホをタッチした。
「それだけわかれば十分です」
「わかるの?」
「ええ、今オレの知っている限りの知り合いにメッセージ送って、その男を探します。しばしお待ちを。そして、美しき茜先輩。あとで連絡先の交換を!」
「え、あ、あの?」
困ったように微妙な笑みを浮かべる少女。その両脇から犬山に向かって同時に怒鳴り声が放たれた。
「いいから、早くしろ!」
「いいから、早くしなさい!」
犬山は椅子に座り、大人しくスマホをいじり始めた。この間にできることは何かと沙夜子の頭が巡る。
「……ねえ、あの桜の花びらは何だと思う?」
「他にも見てる人はいたし」
「そうなのよね。オカルト現象なのは間違いないとして、どういったものか全然わからなくて」
「そのパソコンで調べたのか?」
紙都は備品棚の一番上にあるパソコンを指さした。
「まだだけど、どう調べていいか検討がつかないのよ」
二人して腕を組む。こうしてる間にも警察は確実にここへ近づいてきている。早く打開策を考えないと。それかいったんこの場を離れるか。
「季節外れの桜……」
「あ、あのー……」
「なによ、吉良黙ってなさい」
「はい……い、いや、あの……桜って昔からその下に死者を植えているって有名な話らしくて」
沙夜子と紙都は顔を見合わせた。
「吉良、今の話本当!?」
「えっと……はい。この本に書いてあって」
吉良はいつの間にか手に持っていた赤色の表紙の本を示した。それは昼休みに吉良が沙夜子が部室に入っても気づかないくらい熱心に読んでいた本だった。
「なんなんだ、その本は!」
「これは……日本民俗学辞典です」
「民俗学?」
「え、えっとぉ……」
「民俗学というのは、上の方の歴史を動かしてきたようなお偉いさんじゃなくて、もっと普通の私達みたいな一般人を研究対象にしている分野よ」
話の進まない吉良に変わって、沙夜子が大げさな身振り手振りを使って説明し始めた。
「一般人……民衆の文化や習俗を研究することでその地域に住む人々がどんなふうに生活してきたのか、どんな思想を持っていたのか、どんな生き方をしてきたのか、それを明らかにすること。そういった学問」
紙都は眼鏡を上げた。
「じゃあ、桜の話も」
「そうよ! 『桜の木の下には死体が埋まっている』。そういう伝承があったのかもしれない! 吉良! それ以外の情報は!?」
吉良はその本を自分の鼻の先に持っていった。
「桜の木については、それくらいで……でも、樹木子という妖怪のことが書かれています」
「……妖怪?」
紙都の態度が変わったのを、沙夜子は見逃さなかった。だけど、もう時間がない。今はその妖怪について考えないと。
「樹木子ってどんな妖怪なのよ」
「ちょ、ちょっと待ってください……」
吉良はページをペラペラとめくる。
「えっと……『多くの戦死者の出た戦場跡地などに生えており、外観は一般の樹木と変わらないものの、死者の血を大量に吸って妖怪化しているために血に飢えており、通りかかった人を捕まえ、人の血を吸う。そのため、いつまでも若々しい姿を保っていられる』と書かれています」
「多くの戦死者の出た戦場跡地? この学校が?」
「待って。この学校に旧校舎があるじゃない」
「あの隣にある木造校舎?」
沙夜子は力強くうなずいた。
「そう。そこも曰く付きらしくていろんな噂があるわ。あの校舎がそんなんだったら、中庭に生えているあの巨大な桜の木が、というよりもこの学校全体が何かの謂われのある、それこそ戦場跡地だっていう可能性も十分考えられる。私達が季節外れの桜を見たのも、あの木が青柳さんの血を吸って若返ったからって考えられるし」
辻褄はあった。あとは学校のこととかもう少し確かな情報をつかめれば。
沙夜子は少し膨らみのある胸に手を当てた。未知の遭遇への期待と興奮で鼓動が乱れている。
落ち着いて。まず、ネットで情報を集めて、それから……いや、その前に青柳さんの彼氏の情報を。
「……わかりましたよ、沙夜子さん」
犬山が椅子を引いて華麗に立ち上がった。
「驚かないで聞いて下さい。青柳さんと付き合っていたのは、この学校の教師です。それもうちのクラスの担任――荒席太一」