拾弐
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明らかに血の臭いが漂っていた。4階に上がってきた途端に鼻にこびりつくような強烈な臭いが漂っているということは、おそらく、いや間違いなく大量の出血が起こっている。そして、それは鎌倉の脳裏に容易に例のイメージを浮かび上がらせた。
一言で言うならば、それは「狂気」だ。それはときにどんな刃をも凌駕する力になりうることを、鎌倉は自身の経験から身をもって知っていた。
だからこそ、物音一つすらしない薄緑色の廊下を、慎重に壁を伝いながら目的の部屋へと歩みを進めていた。
「……ところで、ついてきたのはいいが、お前は何か得物を持っているのか? あるいは、戦闘に役立つ能力でもいい」
小声で話しているつもりでもことのほか大きく聞こえてしまった。反響のせいだろう。
「私、こういう体質だから、幼少期から合気道を母から教わっていたんです。複数人を同時に相手するのは向いてないですが、相手が一人程度なら刃物を持っていたとしても立ち向かえます。あくまでも護身用なんで、立ち向かうというのも変ですけどね。それからもう一つ、もし液体が近くにあればーー」
「……わかった、もう黙れ。お前は話が長すぎる」
風が頬を掠めるような冷たい言葉で愛姫の言葉は途切れさせられた。
「す、すみません」
「……いや、だが、それなら自分の身一つくらいは守れるな。お前を守るほどの余裕はおそらくないだろうから」
「え?」
「なんでもない。集中しろ、そろそろ部屋が近い」
そう言って鎌倉は大鎌を展開した。貂が鎌倉の長髪の中へ体を隠し、頭部だけを出して鼻をヒクヒクさせる。
血の臭いに混じって一つだけ確かな意志を感じる。緊急招集が掛けられたはずなのにどう考えても静かすぎる。これは、やはりもうすでに。
貂が慌てたようにすっぽりと髪の中に隠れたその直後。血を吐くような絶叫がフロアに響き渡った。
「い、今のは!?」
「待て、落ち着け」
急ぎ向かおうとする愛姫の腕をがっしりと掴む。こういう手合いとの戦いでは、常に冷静でいなければならない。なぜならーー。
鎌倉はペースを乱すことなく部屋の前まで進む。開け放された扉の中には血溜まりが床に壁に天井に形成されていた。その海に沈むように人、人、人が積み重なる。
なぜなら、自分も狂気に呑み込まれてしまうからだ。
それは血溜まりの真ん中で、荒い息を吐きながら薄気味悪い笑みを浮かべていた。何かから抜き取ったばかりの鮮血が滴り落ちる刃物を床に投げ捨てると、それは天を仰いだ。
恍惚だった。血にまみれたその表情は、まさに一心に願い続けてきたものが叶ったときのように天に祈りを捧げているように見えた。そして、急にガクッと首を落とすとボサボサに乱れたその髪に隠すように、それは呟いた。
「いたぁ……」、と。
鎌倉は瞬時に好機と捉えて自身の後ろに風を巻き起こすと、血の中に沈む人々を飛び越えて一気にそれへと間合いを詰めた。
狙いは首。大抵どんなモノだろうと、首を狩れば意識は絶たれる。ましてや相手は完全に人形。そして、今は丸腰。両手で柄を握り込むと、追い風に乗ったまま頚に刃先を食い込ませた。
真新しい血飛沫が舞い散り、鎌倉の顔にも跳ねた。そのまま引きちぎるように後ろへ体重を掛けると、硬い頚椎へ辿り着く。さらに柄が折れんばかりに力を込めた。
「……どこぉ?」
吐血しながらもそれは明晰に言葉を発すると、あろうことか刃元を両手で握り締め、喉に食い込んだ刃を無理矢理抜き出そうとする。
「……どこぉ?」
手の肉が引きちぎられるのも構わず、それは鎌倉の力に逆らおうとする。真後ろから、それも全力で力を入れているにも関わらず、押さえ込むだけで精一杯だった。
(……なんていう力だ……いや……これは)
「私の……赤ちゃん……」
執念のなせる業か。ようやくいなくなった赤子を自らの腕に抱ける。その想いだけが、こいつをひたすら突き動かしている。
『お願い、赦してーー』ーーそう確信したときだった。不覚にも鎌倉は、過去の幻影を思い出してしまった。大鎌を振るう自分の目の前で母親が命乞いをする姿を。息子のはずの自分に向けた絶望と畏怖の目を。それはきっと、鎌倉自身でも気付かないうちに撒き散らされる狂気に巻き込まれてしまったゆえに生じた一瞬の隙。
「危ない!!」
だから、鎌倉は予想できなかった。自分の後ろに立つ新たな人影が「誕生」したことに。新たなそれは、床に投げ捨てられていた血色の刃物を拾うと、何のためらいもなく突き立てた。
「……私の赤ちゃん、どこぉ?」




