玖
最初は単純な夢のはずだった。ところが、それが複数人に広がっていくうちにまるで夢が実体化したかのように、現実の街中で鬼女の目撃情報が報告されるようになった。その数は約150万人いる京の町の中ではごくごくわずかな人数ではあったが、無視できるものではなかった。
なにせ、碁盤の目状に広がる街中のあちこちで同時多発的に鬼女が現れているのだから。
「もしもし、吉良! 急いで調べてほしいことがあるんだけど!」
梓から話を聞いた二人はさっそく独自に動き始めた。とは言っても、怪異がどこで誰に起こっているのかまでは梓も知らされていなかったため、自分達で調べなければならない。
「ーーうん、そう! 特徴は今言った通りでとにかく赤ちゃんがキーワードだから! それらしき妖怪を調べてーーえぇ!? こっちはこっちで怪異の噂調べてんのよ!」
目の前にオレンジジュースが置かれ、紙都は睨み合いをしていたスマホから目を離した。向かい側には、チョコレートだかショコラだかのケーキとホットコーヒーが置かれる。
ふと、店員と目が合う。
「なんや知らんけど、せわしないんやね~。コーヒーでも飲んで少し気持ちを落ち着きはったらどうやろ?」
紙都は苦笑いを隠すようにコップを傾けた。まさか堂々と妖怪を探しているんです、なんて言っても信じてもらえないだろう。
「まあ、ごゆっくりどうぞ~」
優しげな微笑みを向けて、店員はカウンターへと戻っていった。まだ昼前だからか店内には紙都と沙夜子以外誰もいない。
「ーーそう、そうそう! それじゃ、よろしく!」
通話を終えてスマホを小さなテーブルの上に置くと、沙夜子はさっそくフォークを握った。
「吉良とは連絡が取れたみたいだな、何だってーー」
「美味しい! 何これ初めて食べる味!!」
沙夜子の目がいつも以上に輝いていた。その興奮が伝わったのか、カウンターの奥から「せやろー」とのんびりとした声が返ってきた。
「沙夜子、そんなにお腹空いてたの?」
「違うわよ。よく言うじゃない、甘いものは別なの」
「わかったから、フォークの先を人に向けるな」
そう言って再びスマホの画面に目を戻した。調べていたのは、もちろん怪異の情報。梓の話によると、複数の場所で鬼女が目撃されている。だとすれば、誰かがSNSで発信していてもおかしくはなかった。
だが、鬼女と検索して出てくるのは、ひどい仕打ちをする、あるいはされた体験談ばかりだった。非人道的な行いをする女性に対して鬼女という蔑称で呼ばれているらしい。
(そんなすぐに見つかるようなら、もう大騒ぎになっているか。何か別のワード……)
紙都は、腕を組んで小さく唸り声を上げた。これといったキーワードが見つからない。
「そのケーキ、実は白餡が入ってんねん。老舗のあんこ屋さんから取り寄せた白餡を生地に混ぜて焼き上げてんねん」
いつの間にか店員が、空いている席から椅子を持ってきて沙夜子の隣に座っていた。ただの雑談か、と画面に目を落とす。
「なるほど、だから味が普通のケーキと全然違うわけね!」
「そうや。他にも京野菜を使ったスイーツもあるんやで。卵も葉酸を含んだ卵を使ってて、妊婦さんにも人気があるんや。葉酸ってお腹の赤ちゃんにとって大事な栄養素やから」
スマホを動かす手が止まった。パッと顔を上げると沙夜子も同じことを思っていたのか、目が合う。
「店員さん、もしかして妊娠してるんですか?」
先に聞いたのは沙夜子だ。続けて畳み掛けるように紙都が口を開く。
「最近、変な夢見ませんでしたか? 恐ろしいホラーチックの」
「ちょ、待ってや。急になんなん? そないないっぺんに聞かれても」
店員は困惑げに二人の顔を交互に見ながら手を振った。
「じゃあ、まず、子どもはいるんですか?」
躊躇うような少しの間があった。宙で停止していた両手がお腹に当てられ、愛おしそうに撫で始める。
「いるで。お客さん鋭いんやな。そないにまだお腹大きくなっとらんのに」
(そりゃあ、急に葉酸とか赤ちゃんの話が始まれば、気づくだろう。今は赤ちゃんに敏感になっていることも関係しているかもしれないが。いや、そんなことよりも)
「何か変わったこととかないですか? さっき京極家へ行ったときに、その、赤ちゃんの話を聞いて」
わざとやんわりとした聞き方に変えた。直球での質問は、無駄に不安の種を蒔くことになりかねない。
「ん~何もあらへんと思うんやけど。でも、京極さんに何か言われたんやろ?」
心の中で「よかった」と呟く。 何もなければ、それでいい。
「いえ、なんでもないんです。すみません、変なこと聞いて」
「あー待ってや。ウチやないんやけど、ウチの友達が何か変なもの見つけたって言ってはったなぁ」
「変なもの……?」
急にテーブルに置いたスマホが振動して、沙夜子がビクッと肩を上げる。
「はい、吉良? 何かわかっーーえっ? なに、SNSを見ろって? ちょっと待って」
スマホを耳から離して、紙都に視線を送る。紙都は頷くと、頭をかきながら画面を開いた。
「今、紙都が見てるわ。それで、何をーー」
数秒硬直せざるを得なかった。その様子を見て画面を除き込んできた店員の顔もひきつる。
「な、なんやねんこれ!」
「ーー何? 妖怪が? 増殖している!? どういうことよ!?」
つい今しがたまでいつもと何ら変わらないはずだったSNSの画面。だが、今はそこに同じ文字列がズラっと並んでいた。
「どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?どこ?」
下へ上へスライドしても、その言葉で画面が埋めつくされてしまう。別のワードを発見しても見つけた瞬間に消えていく。
(何が起きている?)
「ーーいったい何が起きてるんだ」




